陽は、父親を知らずに育った。
顔も声も・・・感触も。
たった一つのこと以外、何も知らずに育った。
知りたい、と思ったことが無いわけではない。しかし、尋ねるようなこと
はなかった。
何故か?
それは母親が強い人だったから。
ことある毎に父親を優しい人と呼ぶ、とても、強い人だったから。
朝早くから夜遅くまで一生懸命働いて自分を育てる母親を、陽は尊敬して
いた。だから、炊事も洗濯も出来ることは全部やって、母の帰りを待った。
陽は毎日待った。
今日あった事を話そうと。
シチューが美味しく出来たから帰ってきたら温め直してあげようと。
眠い目を擦りながら、陽は毎日待っていた。
晴れた日はベランダから空を見上げ、星を見ていた。一人きりで見上げる
夜空には沢山の星が光っていた。
しかし幼い陽には限界がある。
朝カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ますと、すでに母の姿は無かっ
た。いつものことではあるが、やはりまた眠ってしまったらしい。
テーブルには朝食とメッセージ。
『陽へ シチュー美味しかったわ。将来はコックさんになる?ハンカチはい
つもの引き出しの中にあるから、ちゃんとピシッとしたやつ持っていくの
よ。じゃあ今日も沢山遊んで沢山学んでらっしゃい。車には充分気を付け
てね。 お母さんより』
几帳面にかかっているラップを剥しながら、メッセージに目を通す。律儀
なことに一日も欠かすことのない朝の伝言メモ。
その紙切れが、陽にとっては何よりも大切な宝物だった。
「ようへ・・・しちゅー・・・しかったわ・・・は・・・こ・・・こっく?
さんになる・・・はいつもの・・・。」
しかし、ここで問題が一つ。まだ小学校にも上がらない陽に、自分の名前
以外の漢字を読めというのは酷な話であった。
「・・・も・・・って・・・んで・・・んでらっしゃい・・・には・・・を
けてね・・・。んー・・・むずかしー。」
そしてさらに深刻な問題として、母はスパルタでこのようなメッセージを
残している訳では無く、単にこの事態に気付いてないだけだった。尚且つ、
とても優しく良い子だった陽は、自分が読めないことに問題があるとし、母
に改善を求めることはなかった。
陽の尊敬する母親ははっきり言って、ヌケていた。
そしてそれは10年が経った今でも変わっていない。
変わったことといえば毎朝残す母のメッセージが100%読めるようになっ
た事と、そのメッセージの空いている部分に走り書きのようなものが付け加
えられていることくらいである。
『父さんも行ってきます、今日は早く帰れるから一緒に皐月さんの好きな肉
じゃが作ろう。父さんより。陽くんえ。』
三ヶ月前、母親は再婚した。
真面目で穏やか。陽のことも大切にしてくれる。眼鏡を外すとビックリす
るくらいイイ男で、なによりまだ28歳。陽の母とは6歳違いの、世に言う
姉さん女房というやつだ。
大企業の期待の星として出世街道まっしぐらではあるが、『へ』と『え』
の使い分けが出来ない桃太郎という名の義父を、陽も気に入っている。
が、どうしても父親という感じではなかった。どちらかというと年の離れ
た兄、という方がしっくりいく。
「肉じゃが・・・買い物行かないと何にもないな。サラダは・・・桃さんト
マト食えないからなぁ・・・。」
それでも、気を遣って歩み寄ってくれる義父の気持ちは無碍にできない。
端からする気もないが。
いつかは父さんと呼ぶつもりだ。
冷蔵庫を覗き込みながら、今夜のメニューを考えた。
でも、まだ・・・今は。
「ごめん、今日はちょっと先約があるんだ。」
授業が終わり、鞄を手にした陽はクラスメートの誘いを断り教室を出た。
急いではいたが、廊下を走ると教師に小言を言われるので早足で2−Aへ
と向かった。歩く度に床とスニーカーが擦れてキュッという高い音が鳴る。
梅雨に入り、湿気が多いせいだろうか。
頭の隅でそんなことを考えているうちに目的地に着いた。2−A。学年で
最も優秀な・・・即ち優希と橙のクラスだ。中を覗くと優希は自分の席に、
橙は優希の前の席の椅子を借り後ろ向きに座って何やら話し込んでいる。
二人の様子からいってもさほど大事な話ではなさそうだったので、陽は気に
せず教室へ入って行った。
「お、早いな。」
陽が入ってくると橙はすぐに気付き、声をかけた。それに反応して優希も
振り返る。
この二人が並んでいるのを見ると、ここが学校の教室だということを忘れ
てしまいそうになる。
自分を見つけて微かに口角を持ち上げる優希に陽はひとまず笑みを返し、
改めて眉をひそめた。
「お前等ってつくづく嫌味なコンビだな。」
長い足を持て余すように組んでいる橙に、端整な顔立ちをフルに生かして
微笑む優希。異父兄弟でなければあまり関わらなかった人種だろうと、陽は
再認識した。
ここに和歌が加わると事態は更に悪化する。いや、外見だけで言うと彼が
元凶と言えなくもないだろう。
「陽、自分を棚に上げちゃ駄目だよ?」
陽の言葉の意味を正確に読み取った優希は、一人で黙々と物思いに耽って
いる陽に釘を刺した。隔世遺伝で受け継いだグリーンの大きな瞳と金髪に近
い柔らかい髪の毛は、周囲から注目を浴びるに充分だった。
「そう!自分を棚に上げるのは優希の十八番だからな。」
茶化すように言う橙に、優希は侮蔑の目を向けた。
陽は口元を手で覆い笑いを堪えるのに必死。噴き出しそうになりながらも、
二人のやりとりを期待の眼差しで見守っていた。
「僕がいつ自分を棚に上げたって?」
珍しくノッてきた優希に、橙は思わず後先考えない台詞を口にしてしまう。
「え・・・自覚ないの!?」
この一言で橙の今日は終わった。
「・・・死刑。」
冷たく言い放つ優希は人差し指一本で橙に死刑宣告を言い渡し、陽は我慢
できずに声を出して笑った。笑いすぎて滲んだ涙を指で拭いながら、無意識
のうちに考えていた。
こうやって笑うようになったのはいつごろだろうか。
正確には覚えてないが、優希たちに出会ってからだというのは間違いない。
それから数分もしないうちに帰り支度を済ませた和歌も2−Aに姿を見せ
た。日本を代表するモデルが教室の出入り口に立ち、のほほんとした笑顔で
待っている。さすが、ただ立っているだけでも他の生徒とは何かが確実に違
う。単にスタイルが良いというだけではなく、見せる立ち方というのが基本
姿勢になっているせいだろう。
「じゃ、帰ろうか。あ、明日はいい天気らしいから屋上で一緒に昼寝でもし
よう。」
和歌を見付けた優希は立ち上がり、後半は陽に向かってだけ言った。
橙はこれで死刑の意味を知る。
「ちょっ・・・それはあまりにも子供じみてはいないか?!」
置いていかれそうになった橙は、慌てて自分の席に戻り鞄を引っ掴んで廊
下へと飛び出した。もちろん途中で女生徒からかかる、名残を惜しむ声には
フェミニスト魂でバッチリ笑顔を返しながら。
帰宅途中、四人でスーパーに寄った。
校門を出てすぐ、夕飯の材料を買いに行くからと一人で道をそれようとした
陽に三人が付いて来たのだ。三人が三人とも、丁度買いたいものがあったか
ら、と言って。
もちろん、取ってつけた「買いたいもの」だということは陽にも分かって
いたが、こんな時は敢えて何も言わない。
お礼なんて言おうものなら自惚れてんじゃないよ、とからかわれるのがオ
チだ。
嬉しいのには違い無いのだが。
いつものことながらカゴを持つのは橙の役目で、モノを入れるのは決まっ
て優希と陽。和歌は、主婦の目で野菜を選別する陽の横にくっついて歩き、
時々料理に関しての質問を投げかけるだけだった。そのおかげで和歌の頭に
は数々の料理レシピと豆知識が詰まっている。
不器用ながらも自活をしている和歌にとって、陽から得られる情報はとて
もタメになっていた。それを知ってか知らずか、陽は自宅以外では料理をし
ない。和歌の部屋に泊まる時は特に、台所に立つことなど一切なかった。
「はい、第一問!どっちが美味しいでしょー?」
二つのブロッコリーを両手に一つずつ持った陽が、かさの部分を和歌に向け
る。和歌はそれよ良く見て、向かって右のブロッコリーを手に取った。
「・・・こっちのが美味しいと思います、センセ。」
自信たっぷりに答える和歌に、隣で見ていた優希がどうして?と首をちょっ
と傾げて尋ねた。
「ほら、目が詰まってる方が・・・。」
と、美味しくないだろう方のブロッコリーを陽の手ごと優希も前に持ってい
き自分が持っている方と並べて見せて、指をさしながら説明を始めた。
「それにこっちと比べるとこっちの方が色が均一だから・・・。」
陽からの受け売りを切々と披露し、優希が納得するのを見届けてから自分の
持っていたブロッコリーをかごの中へ入れた。それを苦笑しながら見ていた陽
に和歌は、さぁ次は?と買い物と問題の続きを促した。
なんだかんだと賑やかに買い物を進めているうちに、陽は時間を忘れていた。
スーパーを出る頃には、日は沈み始め気温も大分下がっていた。
「やっべ!桃さん帰ってきちゃうよ!」
腕時計を見て思っていた以上に時間が経っていることに気付いた陽は、白い
ビニール袋と学校用の鞄を同じ手で持ち、空いている方の手を軽く挙げる。
「じゃあまた明日!橙、優希に風邪ひかすなよ。」
走り出しながらも顔はこちらに向けたまま、三人に別れを告げる。それを見
送りつつ、和歌と橙は陽の献身ぶりに心打たれていた。
義父との関係をより良くしようと努力している陽。しかし、未だ桃さんと呼
んでいるということは……。父さん、と呼べずにいるということは……。
二人の胸はやるせなさに痛んだ。
一方の優希は、感情の読めない顔付きでただひたすらに陽の背中を見送って
いた。
シンプルなデザインのスニーカーが、水溜りの中を駆け抜けた。
三人と別れてすぐに雲行きが怪しくなり、あっという間に湿気が霧雨に変わ
った。水分を含んだ髪は重々しく、いつものフワフワと揺れている陽の髪とは
思えない。しかし、顔に張り付いた前髪を一気にかき上げて、更に走った。
途中で折り畳みの傘が鞄の底に潜っているのを思い出したが、陽は立ち止ま
らずマンションを目指した。その理由としては、義父を待たせたくなかったし、
何より濡れて帰ると余計な心配をかけてしまう。何としても桃太郎より早く帰
宅し服を着替えて髪を乾かさねばと、荷物の重さなど忘れてひたすらに足を進
めた。
しかし・・・。
やっとの思いでマンションの玄関を目前にし、祈るような思いで六階の角部
屋を見上げた。緑溢れる七香家のベランダは他の部屋とは雰囲気を逸している
ため、わざわざ探す手間なくすぐに目に入る。
―――あ・・・。
見慣れたレースのカーテンから漏れる明りは、間違いなくリビングの照明。
皐月の好きな、鈴蘭を形取った小さなシャンデリアが放つ淡いピンクの光だっ
た。
―――・・・傘・・・持ってなかったことにしようかな。
その光を見つめ潔く負けを認めた陽は、早速言い訳を考え始めた。陽が濡れ
て帰ったことに桃太郎が疑問を持たなければ何の問題はないのだ。じっと部屋
を見据えて考えていると、不意に視線の先で何かが動いた。
手で雨を遮りジッと目を凝らすとベランダに続くドアが開いたようだ。そう
かと思うとそのドアから、腕まくりをした桃太郎が出てきた。ベランダに置い
てある何かを持ち上げてドアの向こうに姿を消すと、すぐにまだ戻ってくる。
どうやら雨に弱い植物たちを部屋の中に移動させているらしい。
―――あんな薄着で・・・風邪ひくぞぉ。
相変わらず自分の事は棚に上げている陽だったが、さすがに今回は頭の先か
ら靴の中まで水浸しの自分に気付き自嘲を漏らした。
「自分のコトを棚に上げるのは優希の十八番、だっけ。」
数時間前の騒動を思い出し橙の言葉をなぞってみる。上手いこと言うな、と
関心せずにはいられない陽だった。
するとその声が届いたかのようなタイミングで、聞き覚えのある声が雨音に
混ざった。
「陽くん?!」
え、と顔を上げると案の定桃太郎が手摺りから身を乗り出しこちらを見下ろ
している。
まさか見つかるとは思っていなかった陽は咄嗟にただいま、とこの場に不似
合いな挨拶を送った。
「あ、えっと、おかえり・・・じゃなくて!どうしたんだい!?そんなに濡れ
てっ。」
六階から見下ろすとすでに霧雨とは言えない大きな雨粒が陽を目がけて落ち
ているように見え、桃太郎は眉を寄せた。
しかし、陽の方はというと手すりから身を乗り出している桃太郎が危なっか
しくて見ていられない。更に、風に煽られた雨が横殴りに桃太郎を濡らしてい
るのも気になった。
「どうもしないから部屋に入っててよ桃さん!」
すぐ上がるから、と付け加え陽は急いでマンションに入った。エレベーター
が六階で止まっているところを見ると、ほんの数分の差だったらしい。
項垂れながら↑を押した。
―――どうしよう・・・。
エレベーターの動く音がロビーに響く。待っている間も陽はずっと考えてい
た。
傘を持っていたのに、雨に濡れて帰ったのは一秒でも早く家に着きたかった
から。それは全く自分の都合なのだが、言葉にするとまるで桃太郎の為のよう
で・・・。
エレベーターに乗り込み六階のボタンを押しながらも、考えた。至って自然
で差し障りの無い言い訳。
後から誰も乗ってくる気配は無いが、敢えて自動的に閉まるのを待った。一
秒でも考ええる猶予が欲しいから。
その一秒で奇跡的な閃きを・・・と願うが、それも無駄足掻きにしか過ぎず、
ありきたりの言い訳しか思いつかないまま無情にもエレベーターは目的地到着
を告げた。
角部屋の七香家のドアはエレベーターから一番近いところにある。陽が六階
に足を踏み出した途端、そのドアが勢い良く開いた。
「陽くんっ。」
明らかに慌てた様子の桃太郎が、大きめのバスタオルを翻しながら飛び出し
てきた。
「ただいま、遅くなってごめん。」
「そんなことっ、それより傘は?!なんでこんな濡れて・・・?」
「友達が・・・クラスの女子がさ、傘忘れたっていうから貸したんだ。」
ほら、俺って結構優しいから、と少々ぎこちなくも何とか誤魔化し、とりあ
えず早く部屋に入ろうと桃太郎を促した。ベランダに出ている間しか雨に打た
れてない割には、なぜか桃太郎のYシャツは乾いているところが無いくらい濡
れていて、とても寒そうに見えた。
「とにかくお風呂入って温まっておいで。このままじゃ風邪ひくから。」
「うん・・・でも桃さんも濡れて・・・。」
肩にかけられたタオルで水滴の落ちる髪を拭きながら、桃太郎を見上げた。
できれば先に風呂に入ってほしくて。
その時、陽はある事に気がついた。
「あれ・・・眼鏡、かけてないんだね。」
桃太郎の眼鏡には度が入っていない。よって、かけていなくても不自由はな
いのだが普段外すことがないため陽は意外に思った。よく見ると、今朝はきち
んと上げていた髪も綺麗におりてしまっている。それもかなりの水気を含んで。
まるで陽と同じように。
―――もしかして・・・
そこでふっと思い当たった。
「もしかして桃さんも濡れて帰ったの?」
桃太郎の顔がフリーズする。
「えっ、あ、いや・・・うん。」
嘘の付けない桃太郎はしどろもどろになりながらも結局は素直に頷いた。
「傘、持ってなかったの?」
「・・・うん。」
「どっかで買えば良かったのに。」
「・・・うん。」
「急いで・・・帰ってきてくれたんだ。」
「・・・・・・。」
返事に困っている桃太郎を見て、もしかしたら同じなのかもしれないと思っ
た。
同じに、互いを待たせたくなくて。
陽は心に違和感を覚えていた。あまり経験のない、胸の中がくすぐったい感
じ。
「・・・ありがとう。」
雨に濡れて冷え切っているはずの体か、真ん中辺りからジワッと温かくなる。
「陽くん・・・?」
「ありがと、桃さん。」
二人はその後、陽の誘いで一緒に風呂に入った。自分より若干広い背中を流
しながら、陽はやはりムズ痒い感覚に襲われていた。
「父親の広い背中・・・にしちゃあちょっと貧弱だな。」
などと、冗談を言いながら。