5
裕嬉は倒れる自転車にかまいもせず、校門に走り寄る。もう通用口も開いていない。強行突破とばかりに一番低い横棒に足をかけたとき、背後から肩を叩かれ振り返る。
「えっ……月江、由美花も。」
「先に行って門はともかく、校舎のシャッターとかは閉まってるかもしれませんよ?」
「迂闊だったわ。」
月江が隙間から門の裏側に手を伸ばし閂に触れた。
「今開けますから。」
かちゃりと音がして、閂が動くようになった。
「懐中電灯持って来たよっ」
由美花が電池の有無を確認して灯りをつける。
「私なんか役に立たないかもしれないけどっ。月ちゃんも裕ちゃんも行くのにひとりでじっとしてなんていられないから。」
校舎に向けて走りながら弾む息の下で由美花が言った。
「うん、ありがと。」
校舎までの長い舗装道路は、今は街灯に灯りも無く不気味な暗さで伸びている。校舎へ、そして続く階段へと。誰かがこの道を通り、そして。
ただ夢であったならばそれでいい。
けれど、もう否定しようの無い、何かが。
聞こえてくるのだ現在進行形の、助けを求める声が。
(分かるわ。)
自分の走っているこの道を、通っていったこと。見つめる視線の先に、夜闇を一人歩く少女の姿がだぶって見える。追いつきたい。
伸ばした手が彼女に届くことは無い。今何処にいる。
「閉まってるのね。」
裕嬉の手がシャッターにあたりがしゃんと音を立てた。
「まだ、来てないのかな。」
由美花は敢えて誰がとは口にしなかった。月江は希望的観測ですね、と言った。
「恐らく催眠状態でしょうからね、最短ルートをとったのかもしれませんよ。」
「最短ルート?」
裕嬉が振り返ると月江は既にシャッターの錠に手を伸ばしかけている。
「窓を割るとか、いくらでもありますよ。」
月江の不吉な言葉と供に不可視の力がシャッターに働く。
「私たちは帰りもここから出て、元に戻しておけば余計な面倒は起こりませんよ。」
「でも、この中に今真っ当な神経の人間がいたらバレバレよね……。」
持ち上げたシャッターは遠慮の無いすさまじい音を上げた。冷たい廊下に壁にその音が反響する。
「でもまあ、ここに居るのは彼女と私たちとそれに……」
裕嬉の言葉を月江が継いだ。
「敵、だけですからね。」
三人は静まり返った校舎に響く靴音も気にせず屋上を目指す。長い廊下で、窓の少ない階段部分はより深い影を落としていた。走り過ぎた教室のガラス窓がびりびりと震えた。
先頭を走る勇気が階段にさしかかったとき、上方からの重い音に空気が震えた。
一瞬三人の足が止まり視線が交錯する。
「屋上のドアの音だわ……!」
裕嬉はスピードを上げて走り出す。その後を少し遅れて由美花と月江が追う。
「もう、八時、四十五分になってるッ……」
由美花が時計に目を走らせて言った。
月江は階段を上る足に力を入れる。もし少女が飛んでしまったときには……。
裕嬉も同じことを考えて最後を一息に上る。開いたままの屋上のドア。月江は少し遅れている。
冷たい風が吹きつける。
手摺りの向こうに少女の姿が見える。
裕嬉はそれを目にした瞬間に叫んでいた。
悲痛な既視感(デジャヴ)。
伸ばした手に掴みきれなかった未来の映像。
叫んだ声は決して届きはしなかった。
出来ない、きっと。
きっともう間に合わない。
そうして、また見送る?
また……。
(違う)
今、このときに起こることを止めるために見てきたこと。繰り返すのではなく、それはまだ起こっていないことだ。まだ、間に合う。
「お願い、私の声を聞いて!!」
少女が振り返るのがスローモーションのように見えた、その顔。
(何処かで会った……?)
裕嬉の脳裡に閃きが通り抜ける。すれ違う、その刹那に交し合った視線。
それと同時に少女の身体が大きく揺らぐ。驚いたように見開かれた瞳がまっすぐに裕嬉を捉えた。
タ・ス・ケ・テ
ダイレクトに届けられる感情の塊。
しかし答える暇さえ与えず伸ばした手は屋上の縁の向こうに沈んでいく。
そのとき月江は裕嬉の背中を見ていた。彼女は何事か叫んでいる。
早く、飛び降りる者の姿が見えなければ……!
「え!?」
宙を舞い、深い闇へと沈んでいく少女のイメージ。
考えている時間は無かった。月江はその心的映像に集中した。
(――止まれ――!)
裕嬉は手摺りから階下を覗き、三階の窓の辺りで不自然に静止している少女の姿を見た。
「月江?」
振り返ると月江と由美花は今屋上に出たところだった。
「どうして……」
「いえ、私は彼女が落ちるのを見たわけではないんですが……裕嬉が見ていたものが見えたのではないかと。おそらく」
少女の身体がゆっくりと上昇してくる。
「月江が、私に同調?」
「いえ逆でしょう。裕嬉が私に伝え……ッ!!」
不自然に月江の言葉が途切れ、彼女はそのまま頭を抱え込む。苦痛の表情が浮かんだ。
「月ちゃん、どうしたの!?」
「また落ちてるわッ」
裕嬉は欄干を越えた。少女に手は届かない。しかしそれは普通に落下しているわけではない。じわじわと下方に引かれるようにして……これはまるで。
(反発する力が働いているって事なの?)
月江は力のレベルを上げることに集中する。そしてやっとのことで、二人に状況を知らせるために口を開いた。
「誰かが、下向きに引っ張っている感じがしますっ」
「じゃあ、そのひとも念動力を使ってるってこと!?」
由美花の言葉に裕嬉はどうしようもない焦燥を覚えた。敵は二つの力を所有しているか、もしくは複数。裕嬉は知っていた、しかし、実際に目にするとどうだ。自分に出来ることは無いのか。少女を目の前にしながら、助けられないのか。
しかし拮抗していた力のバランスが崩れ、少女の身体を再び上昇し始めた。
目を閉じ、強く手を握って立つ月江を祈るような面持ちで見る。
あと少し。
もう少しだ。
裕嬉は固唾を飲んで徐々に浮かび上がる少女の身体を見つめる。二つの力がぶつかり合い犇めいている危ういバランスが感じ取れる。どちらが先に力尽きても不思議は無かった。落下のショックからか、或いはマインドコントロールの精神的負担からか少女は気を失っている。その方が都合が良かった。
しかし、裕嬉の手が少女の肩に触れるか触れないかのときにまた地面に吸い寄せられるように大きく落下した。
「月ちゃん」
由美花の切迫した声に振り返ると、そこには冷たいコンクリートに膝をつく月江の姿があった。一体何が。
しかし下手に騒ぎ立てては月江の集中(コンセントレーション)を乱すことになる。自分にも同じ力があれば、きっと負担を減らすことが出来るのに。
「……月江。」
月江は二人の呼ぶ声を壁一枚向こうに聞いたような気がした。重さと痛みを増していく頭の中で、額、首筋、背中……流れていく汗の感覚だけが鮮明になっていく。
駄目だ。
相手の力は強い。
人の意識に干渉するマインドコントロールの力と念動力、その二つを同時に有する者。一体それは何者なのだ。
人を超える能力。根元的な次元(レベル)の差異。
そのような存在に適うのだろうか。
誰が?
この自分が?
それは不可能ではないのか。
たとえ救えなかったとしても……それは不可抗力。
月江と少女を繋ぐ見えない力のベクトルが揺らぐ。自分の力の作用しているレベルさえも感知し得ないままに朦朧とした意識を何とか保とうとしていた。
もう無理なのか、これ以上は。
(……じゃない)
駄目。
温度と感覚を喪失する手足。
ちがう。
相手は自分を超える者。適わない。
そうじゃない。
適わない。 ちがう、ちがうのに。
諦めてしまえ――
無理なんかじゃない!!
月江ははっとした。この暗い思想は誰のものなのだ!?
巧妙に、意識の隙間を縫うように入り込み、思い込ませる力……。
(これがマインドコントロール!)
屈してはならない。そう自覚した途端に月江は首から方に激しい重圧(プレッシャー)を感じた。
眼前から屋上の景色が消える。暗闇と呼ぶ声だけが。
(もう駄目だ)
激しい耳鳴り、重い感覚。
自分がまだ地面に立っているか動かも分からなくなるほどの平衡感覚の喪失が襲ってくる。暗闇の中で、かろうじて少女と自分を繋ぐ細い、白い糸のイメージが浮かぶ。これを手放してはならないと知っているのに!
(耐えられない)
神経を掴み取り、意識の根底を現実から引き離そうとする強力な意志。
あらがうことさえも許さず押し寄せる頭痛の波。
心臓が冷たくなっていくのが分かった。
現実に戻らなければ。
強制の力に引きずり込まれないだけの、強い、感覚を……!
「月江!」
ついに裕嬉は耐え切れず少女から目を離し月江に駆け寄った。
「大丈夫です。」
切れる息の間にそう吐き出した月江の口元を血がつたい、アスファルトに黒い染みをつくった。
「何を……」
「裕ちゃん、浮かんできた!」
裕嬉に代わって屋上の縁まで走る由美花が言う。その背に続こうとする袖を月江が引いた。まだその顔には苦痛の表情がある。
「今……相手は私にマインドコントロールの力を、使っています。」
「え!?」
二つの力を同時に駆使しているというのか。
「あきらめろ、もう無理だと念じているんです……裕嬉、捜してください。」
敵はこちらの状況を把握した上で力を使っている。
「相手は近くにいます!」
「念の出所を探すのね。」
同じ精神に関わる力を使うものに同調する―当然それは初めての試みだった。しかし月江にもう余力は僅かだ。躊躇している場合ではなかった。
「由美花、私のことも月江のことも頼んだわよ!」
由美花は強く頷いた。
裕嬉は目を閉じる。物質的な景色に支配されてはならない。自分を囲むイメージの壁から、心を解き放つ。
裕嬉は頭を殴られたような衝撃を覚えてよろめいた。大気全体が酷く澱み、重力が何倍にも増したようなプレッシャーを感じる。このすべてが月江一人に向かっているのか。彼女は唇を噛み切った痛みで自分の意志を保っている。
あきらめろ・かてない・もうむり
次々と浮かび上がるマイナスの言葉。強く念じる声が聞こえる。
しかしそれは大気のすべてを震撼させ、感知しうる空間全体を支配する強大な念だ。その重力に圧迫され、自身を見失う感覚さえ覚える。
ただ一点の源を探す……。
(できない……どうすればいい!?)
重く、暗い空気が拡がって行く。
そのイメージだけが強く頭に浮かぶ。
暗雲の中で、その源を見ることは……不可能だ。
このままでは。
血の気の引いていくのが分かった。
苦しげな二人の様子を見守りながら、由美花は懇願するような思いでいた。
自分にも、何か出来るなら……!
無力であることが何より辛い。こうして戦っている二人を黙ってみているしかないことが。
「……あ」
そのとき、コンクリートについた月江の腕が崩れそうになった。由美花は咄嗟にその肩を支える。
「大丈夫?」
「……てください」
月江が苦しい息の下に言う。由美花は問い返した。
「何?何か大事なことなの?」
月江がいまだ苦痛の表情はそのままに、しかし毅然と顔を上げた。
「私は大丈夫ですから、今したように裕嬉に……多分、触れるだけで構いません、早く裕嬉に触ってください!」
「え?……うん、分かった!」
由美花には月江の意図することが分からなかったが、ここで月江が無意味なことを言うはずも無いので頷いて裕嬉に駆け寄った。
その背中を見ながら、月江は再び強くなった心的重圧(プレッシャー)に耐えるべく意識を集中した。そう、由美花が自分の身体に触れた瞬間、マインドコントロールの力は確かに効果を弱めた。そして、自分の能力のレベルが引き上げられた。
身体が、楽になったのだ。
それはもう、気のせいや気休めといったレベルではなく、完全な減退と増幅の作用。これもまた能力なのかもしれない。
月江はともすれば崩れそうになる意識を支えるように顔を上げ、二人の様子に目を遣る。
触ると言ってもどうしたものかと由美花は迷ったが、取り敢えず裕嬉の肩に手を回した。
「裕ちゃん、頑張って!」
「……え!?」
裕嬉は不意に暗雲の晴れるのを感じた。感覚が、先鋭になっていく。
あきらめろ…………やめてしまえ
それはもう空間に横溢する澱みではない。ただ一線の光芒となって、まっすぐ月江に向かう思念だ。拡がりを透過してその軌跡が露わになる。
その、逆の端は―。
「向かいの校舎の一階だわ、由美花、月江のことお願いねッ」
「え……ちょ、裕ちゃん!」
裕嬉は由美花の手を振り払うようにして階段に走り出た。
「月ちゃん」
月江の方を伺うと彼女は由美花の背後を指で指し示している。
「あ」
振り返ると少女の身体が手摺りの向こうの僅かなスペースに横たわっている。由美花は引きずるようにして何とかそれを手摺りの内に引き入れた。
月江は遂にコンクリートに肩を落とした。
「裕嬉が居所を見つけたことで諦めたみたいです……」
由美花が手を貸すより早く月江は立ち上がった。
「でもそれって、裕ちゃんに居所を見つけられたって分かるっていうのは」
由美花の言わんとするところを理解して月江は頷いた。
「ただこちらの様子を見ていただけということもありますが、もしかするとより高い精神的な能力を持っているということかもしれません。早く、後を追わないと」
二人が屋上を後にした頃、裕嬉は既に第三校舎の階段を一階に向けて走っていた。最後の数段を飛び降りた瞬間、甲高い破砕音が耳に飛び込んできた。
ガラスの割れた音か。
廊下に黄色い灯が落ちている。遠くは無い。
裕嬉はそこに辿り着き、懐中電灯が転がり校内の関係者らしい白衣の男が倒れているのを見た。すぐ傍の窓が割れ、拾い上げた懐中電灯で照らすとガラスの破片は中庭に散らばっている。外に人影は無かった。
「たたたたたた……何事だ!?」
倒れていた人物が起き上がる。
「あの、大丈夫、ですか?」
裕嬉としては急いで逃げるべきだったかもしれない。しかしもう手遅れというやつだ。手にした懐中電灯をその人物に向けてしまっていた。
「その声、瀬野か?いや、待てよ、何でこんなことろに居るんだ!?」
懐中電灯の光に手をかざすのは間違いなく松坂教諭だった。
「あの……えっとですねえ……」
そこへ月江の声が割り込んできた。
「裕嬉、財布見つかりました。」
そして恐らく最初から所持していたであろう財布をこれみよがしに見せている。裕嬉はすぐに話を合わせた。
「あ、よかったわねえ、月江ってば抜けてるからっ。」
「あれ、先生どうしたんですかあ?」
由美花がたった今気付いたと言わんばかりに不審顔の松坂に言った。
「おまえら忘れ物か?でもどうやって入ったんだ?」
一瞬裕嬉は言い訳に迷ったが月江がしれっとして答えた。
「第二校舎のシャッターの鍵開いてましたよ。守衛さんが忘れたんじゃないですか?」
松坂が立ち上がり、床に落ちていたマスターキーを拾い上げたので裕嬉は懐中電灯も手渡した。
「あの、ガラスが割れたような音がしたんですけど、何かありました?」
松坂は裕嬉の指差す大きく割れたガラスを見遣って、ああっと声を上げた。
「そうだ、ここで誰かとぶつかって……変だよな!?この時間にッ。しかも窓破って逃げてくなんてフツーじゃないよな!?」
「先生、多分警察呼んだ方がいいですよ?」
由美花が恐る恐る言うと松坂も頷いた。
「じゃあ、俺は金庫の方とか見てくから。おまえらはもう帰れ、いいな?」
三人は取り敢えず優等生の返事を返して校舎を後にした。
「あそこまで来て、ふつっと気配が途絶えちゃったのよね。」
もう追うのは無理と見て三人は家路に着いた。
「マインドコントロールにサイコキネシスでしょー。その、裕ちゃんにこう、思念を見られないようにするくらい出来ちゃうのかも。」
「そうね。」
肩を落とす裕嬉に月江は前向きに行きましょうと笑いかける。
「ひと一人助けることが出来たんだからよしとしましょう。」
「そーね……ってあのコどうしたの?」
「ああ、それは……あのままってわけにもいきませんから、三階の階段のところまで運んでおきました。」
「飛び降りようと思ったんだけど、やめちゃってショックかなんかで気を失っちゃったとか適当に納得してくれるんじゃないかって。」
裕嬉もしばらく考えたが、お手上げと肩をすくめた。
「残念ながら他に良い考えが浮かばないわ。ちょうど飛び降りた瞬間に気ィ失っちゃったみたいだし。」
そう言ってしばらく黙った裕嬉だったが、またおもむろに口を開いた。
「私ね、あの人に会ったことがあるの。前に科学準備室にノート持っていったときにね。何か、いじめられるとこで松坂先生に相談してたみたい。」
「イジメ?」
由美花の問いに裕嬉は首を振る。
「先生が言うにはそうではないって。ちょっと被害妄想気味なんだって。でも最近は学校には来てて良い方向になってるとも言ってたんだけど。でもやっぱり、コントロールされた人にもそれなりに要因(ファクター)みたいなのがあったのかなって。」
「それはそうでしょう。」
月江がはっきり言う。
「私がコントロールされそうになったときも、少なからず辛いとかもう嫌だとか思う気持ちはあったはずですから。でも今の話でちょっと考えたところがあるんです。」
「何?」
「いえ、大したことではないんですが。裕嬉は今日飛び降りようとした人と顔を合わせたことがあるんですよね。人間誰でも潜在的に能力を持っているのだとすれば、あの人自信が自分の危機を無意識のレベルで認知して」
勇気も月江の言いたいことが分かった。
「それを私に伝えたって事?そうね、その方が自然かもしれないわ。私の能力はそういうち力だもの。」
「それと由美花ですね。」
由美花があたし?と指を胸に当てた。
「そう、由美花が触ってくれた途端感覚が鋭くなったの!それも負担を感じずに見たいものが見えるようになったのよ!」
「私もそうでした。マインドコントロールの影響が弱くなって、それに自分の力のレベルも上がったんです。」
黙って聞いていた由美花が顔をしかめた。
「どういうこと?」
「思うに今回由美花の力が増幅器(ブースター)のような働きをしたのではないかと。」
裕嬉は或いはと言い換える。
「由美花の場合、今までだって同調とか天気の予想とかいろいろあったわけだから、素直にそのときの気持ちが形になって現れたってことなのかもしれないわね。」
「そうだね、もし私のおかげで月ちゃんや裕ちゃんがちからのことで楽になったって言うなら……確かにあのとき少しでも役に立てたらって思ってたし。」
「そうですね、そういうことかもしれません。」
月江の一言でその話題が終わり、裕嬉はふと尋ねた。
「今って何時かしら。」
「私時計持ってるよ。」
準備良いわねと言われて由美花は笑う。
「少しでも役に立つかなって。えっとね、九時ちょい過ぎだよ。」
「案外、時間経ってませんね。」
「三時間くらい経った気がするわ。力使いすぎちゃって眠いし。」
「……私も、です。」
「あああ、二人ともこんなとこで寝ないのっ、裕ちゃん学校の方は本当にもう大丈夫なの?」
裕嬉はええと笑った。
「もう全然嫌な感じしないし。あの子からのテレパシーも無いしね。」
そうして三人はそれぞれの家へと帰り、裕嬉も由美花も久々に安らかな気持ちでベッドに就いたのだった。
今まで負担でしかなかったこの力。
それが一人の人間を救った。
そのことさえも―このような事件に巻き込まれたことも或いは負担なのかもしれない。
それでも、許されるのなら。
巻き込まれたのではなく自分で選んだことだから。
今こうして満ち足りた気持ちでいられるのだから。
何より、この力が誰かの役に立った。こんな力でも、何か意味があるのかもしれない。
そう思えるなら、少しは救われる。
(誰が?)
夢へと引き込まれる意識の片隅で、答える自分自身の声を裕嬉は聞いた。
私が、救われるのよ。
終章
「じゃあ、あれからは何も見ないんですね。」
「うん、もうすっかり平気よ。」
数学のノートに没頭していた由美花も顔を上げた。
「私も。心霊的に言えば、死んだ人たちが浮かばれたって事になるのかな。それに学校の雰囲気だってずいぶんよくなったしね。」
裕嬉も同じことを感じていた。クラスメイトを失った悲しみは拭いきれないが、それでも教室は柔らかい空気に包まれている。あの日から八日が経ったが新たな自殺者も出ていなかった。
「こんなときに不謹慎かもしれませんが……」
言いよどむ月江を裕嬉は促した。
「なに?」
「私は、少し安心したんです。私がこんなふうに生まれついたことで、命を取り留めた人がいるということに。助けられなかった人もいるんですけどね。」
裕嬉は自分だけでなかったと気付く。
自分たちの他にも能力者がいるとすれば、きっと誰もが考えるに違いない。人の心を覗いてしまう罪悪感や、そんな具体的なことではなくとも。
人と違うという事への不安。
自分を偽り続けていく虚しさ。
そんな思いをしていくことで、その代償でもいい、何かが変わっていくのだとすれば、その先に何かがあるのなら―。
「私もよ、月江。平たく言えば生きる意味ってやつね。」
「力のことで悩んだり、必要以上にこだわっているつもりもなかったんですが……。安心できたことで逆に、切っても切れない問題だと気付かされもしたんですけどね。」
「でも一人じゃないし、ね?」
何気ない由美花の言葉に二人は顔を見合わせ、そして笑った。
教室のドアが開き、数学教諭が入ってきたことで辺りに静寂が降りた。不意の静けさに裕嬉はずっと考えないようにいしていたことを意識の表層に浮かび上がらせてしまった。
「でも、犯人はまだ見つかっていないのよね。」
その呟きを耳にして、月江が軽く裕嬉の肩をたたいた。
「終わったんですよ、裕嬉。」
しかしその声にも押さえようの無い不安の響きがあった。
-end-
|