ORIGINAL



      ――― 序章  ―――    見つめていた ―――。 ずっと ―――。     どのくらい?      ・・・・・・。      見つめたいと、思っていた。      あの、空が高かったあの日から。ずっと。そう、ずっと ―――。 守りたい? 救いたい? 愛したい? ・・・・・・愛されたい? その全てで、どれでもない。 見つめていたい。 ずっと ―――こうして ―――。   † † †      白いシーツに落ちる影が時間をかけて、少し、揺らいだ。 「海に・・・行きたい。」 男のモノか女のモノか判別の難しい澄んだ声が、他に音の無い空間に 小さく響く。 ベッドの横で参考書などに目を落としていた青年が眉の微妙な動きだ けで反応を見せ、次にゆっくりと視線を移した。   音源へ、と。 視線の先にはその青年と同じ年頃の青年の横顔があった。透けるよう な白い頬に、同じく色素の少ない長めの髪を下ろしたその横顔は、一言 そう言ったきり、言葉を繋げようとはしない。  ただ、他を見ず、ひたすらに窓の外を見つめたまま。いや、窓の外の 方を見つめたまま。  その言葉は、希望なのか、要求なのか、嘆きなのか、命令なのか。し かし、そのどれであっても結果は皆同じ。 「ハァ〜〜〜〜〜〜。」   大袈裟過ぎる程に項垂れてみた。語尾に?マークは付かない。ただの 溜め息。    解ってはいても、一矢報いたいではないか。 「キミは今、体調が芳しくない。それはお解りの事と思うが・・・ 尚 且つ、秋口を過ぎた昨今冷たい風に耐え凌ぎつつ電車を乗り継いでまで 海へ出向かねばならない理由を、句読点を含む50文字以内で簡潔に答 えよ。」 参考書をわざと音を発てて閉じ、悠然と足を組み替える。さぁ、答え てみよ!と、そんな雰囲気で。    しかし、自分を見ない横顔をじっと見据えて返答を待つ青年の表情は 態度とは裏腹に、若干の苦笑を含みつつも随分穏やかだった。 「海へ・・・行きたいんだ。橙。」   青年の名前を呼びながら、やはり視線も声音も変わらない。   ―――確かに50文字以内には違いないが。   分かっているくせに、と思う。逆らう言葉は持ち合わせていないとい                うことを。   ―――それでいて『命令』じゃない辺り、性悪間違いないよな。   橙、と呼ばれた青年の苦笑が、やや濃くなった。 「・・・・・・ありがとう。」                             † † †     ピッという電子音と共に小型の携帯電話が耳から離れ、2つに折り畳 まれた。そのまま逆さに吊られてぶらぶらと揺れる。   最新式の携帯を無造作に首から下げた、小柄な少年が屈託なく笑った。 「優希、海だってさ。」   誰かに向けられたその言葉は、思いがけず宙を舞う。聞いてるの?と 問いかけようとした少年を、無意味についているTVから流れる天気予 報が止めた。頭の悪そうなアナウンサーが舌っ足らずな喋り方で今夜の 天気を告げる。   何とも不快な声。少年は顔を曇らせた。 「顔で選んでるなぁ。スケベ局長。」   自らの父親に対して、遠慮なく罵声を浴びせた後、手元にあったリモ コンで音量を下げた。椅子の上に片足を引っ張り上げて膝を抱き、その 上に顎を乗せて天気図を観る。新米アナウンサーなどに頼らずとも天気 図位何の難もなく解読することが出来る。その、スケベ局長の要らぬ入 れ知恵のお陰で。   ―――寒く、なる。 「和歌ぁ。」  低く呟いた声に、キッチンで洗い物をしている『和歌』は気づかない。 「ばかぁ。」 もう一度、呼んでみる。 すると、勢いよく流れ出す水の音が急に止まった。次いでスリッパが 床を擦る音が近づく。 少年は、複雑な面持ちでその音を聞いていた。 焦ったような、笑いたいような、その笑いを必死で堪えるような。 「もっかい、言ってみなさい。」 背後で止まった足音は、少年が振り向くのを待たずに目の前の頭を両 手で掴んだ。そして髪を乾かすように目一杯かき回す。 「だぁぁぁ!いったいよっ、ばか和歌!」   少年よりも一回り大きい和歌の手は軽々と一個の頭を包み込む。    少年は自分の頭を駆けずり回る長い指を、何とか捕まえて引っ剥がし た。 「呼んでも気づかなかった和歌が悪いんだろっ?!」   水仕事で冷えきった手を捕まえたまま振り返り、さもそれが正論かの ように言い放った。 「それにっ、何で馬鹿だと聞こえるんだよ!」 声の大きさは変わらなかった筈だと、大きな目を更に見開いて主張す る。 「あとっ、水使うなって言ってるだろ!?だっ、何の為に温水器付いて ると思ってるワケ!?」   誰のために、と言いかけて、止めた。   ―――つけあがるから。 「・・・・・・。」    一気に問いただされた和歌の思考回路が、暫し凍りつく。   自分は何故叱られているのだろう。確か、自分は何一つ悪くない。目 の前の少年が腹が減ったというので食事を作り、その片付けまでもかっ て出た。その上で馬鹿呼ばわりされて・・・・・・納得が行かない。更 に今、何故かとても責められているようで・・・・・・理不尽さは拭い きれない、が。 「陽の手は暖かいなぁ。」 赤く、色を変えた自分の手を乱暴に包む少年の手から伝わる体温が、 一瞬にして全ての感情を鈍らせてしまい、いつの間にか反論の言葉を失 っていた。 「和歌の手が冷たいんだよっ!!」   あまりに的外れな返答に、呆れと怒りに任せて突っ込んでみる。が、         期待した程の効果はなく、そうか、と一人ごちている和歌に今度は溜め               息しか出てこなかった。 「もう、いいや・・・あぁっ、そんなことより優希っ。」 呆れ果てて肩を落とした瞬間、和歌を呼んだ理由を思い出した。数分 前の電話と、気分の悪い天気予報。加えて、我らがナイトのお役目を。   優希、という響きで飽和状態だった和歌の意識が無理やり引き戻され る。顔付きまで変えて陽の言葉を待った。 「海、行ってんだって。迎えに行った方がいいんじゃない?今夜は冷え るよ?」   人事の様に言うが行くのならば陽も共に。それは当たり前で、日常だ った。   姫が望むのならば、そこが何処であったとしても。   陽の初めの一言で、既に和歌の手には車のキーが握られていた。着の 身着のままで出て行く華奢な背中を見送りつつ、陽はもう一度大きな溜 め息をついた。 「寒くなるって。今!たった今言ったとこじゃんっ!!」   自分が行くまで車を出さないことはわかっている。厭味の様にゆっく り立ち上がり、和歌の部屋のクローゼットを豪快に開けた。   今日の格好からしてあまり地味なコートは似合わない。かといってあ からさまに派手なモノは横を歩くのに恥ずかしいので・・・。   ―――こんなもんか。   ルナのコートを、ハンガーから引っ張って手元に下ろす。カットが独 特で、黒い革のロングコート。 自分が着たら床の掃除になっちまうな、と腹立たしさを覚えながら自 分の上着は適当に掴み、ようやく和歌の後を追った。                 † † †   海辺を走る電車の中を、巨大な夕日のオレンジ色が遠慮無しに染め上 げる。それは、感動を覚える程に強引で、潔い自然の色だった。   幾つかの電車を乗り継ぎ、予定の下車駅まではあと少し。暖房の効い た車内にはまばらな人影が有る限り。   流石にこの時期海へ向かう物好きは、そう多くない。問題は、都内を 抜けるまでの人ゴミだった。   ―――汚過ぎる。綺麗な優希には、あまりにも。   ゴトゴトと古めかしい音を立てながら進む電車には2人掛けの座席が                延々と続き、それと同じだけの窓が並ぶ。その中の一つに、優希の肘が 掛けられていた。向かいには橙の姿が有る。窓の外を見ている優希の横 顔を、橙はまた、見つめていた。 不意に優希の視線が移り、橙のそれと合致した。 「何?」 珍しく何か言いたそうに自分を見ている橙が気になった。いつもは、 ただ、見ているのに。 「いや、綺麗だなぁ・・・と思って。」 他意を一切交えずに言いきる橙に、優希は一層表情を無くし、視線を 戻した。 「そう。」 愛想の無い、生返事を叩きつける。 その冷ややかな態度に、橙は身を揺るがして大袈裟に脱力した。 「ぬおぅ!・・・そうって、キミ。それは同意と取って良いモノなのか ね。」   何とか食い下がる橙に、優希は再び目線をやった。しかし、先程より は確実に冷たい瞳で。 立て付けの悪い木製の窓からは何処からともな く若干の風が入り込み、優希の髪をフワフワと揺らしている。 「同意じゃないよ。橙の思ったことに対するただの相槌だろ?」 ただの、を強調する。何を言ってるの?というニュアンス。 「・・・はい。そうでございますね。」 橙にすれば他愛ない冗談のつもりだったのだが。しかし反論する気に はなれず、あらためて頭を垂れた。 「ホントは・・・あんま太陽見てると目ぇ悪くするんじゃないかと思っ て。あ、あと・・・席を・・・こっち、こないかなぁ・・・とか。」   おずおずと自分の隣に手を置く。優希は、不思議そうに橙の動きを目 で追った。   言葉にすると恥ずかしいモノだな、などと思いつつ顔を上げると、優 希の視線は自分の手元で止まったまま言葉の意味を理解しようとしてい るように見えた。   暫しの沈黙。   耐え切れず、橙の口が開きかけたその時、一瞬早く優希が動いた。宙 に浮いたのではないかと思わせるほど軽やかに立ち上がった優希の体は、 次の瞬間には橙の横へ腰を下ろしていた。 「ホントだ。風来ないだけで随分あったかいもんだね。」 橙は、意外だった。 「察していただけて何より。」   ――― 違う。   考えを見透かされるのは良くある事だ。そうではなくて。   夕日を見たいのだと思っていた。透き間風も、強い太陽光線も、そん なことは一切関係なく。夕日を、見ていたいのだと。   橙は、頭を抱えて窓の外を見た。この夕日は優希にとって何だったの か。   優希の肘が無くなった窓枠に今度は橙の二の腕が乗っかる。   考えても解る訳はないのだが。 「おんなじオレンジ色なら、こっちで我慢してやろうと思って。」 「 ―――っ!?」   また、読まれた。  それが本心かどうか、確信は持てない。が、その台詞があんまり嬉しか ったので、橙は考えるのを止め喜びを噛み締めるのに全力をつぎ込むこ とにした。 「・・・橙。」   勝手に持ち上がる口の端を片手で覆って、遠慮なくニヤついている橙 に優希の静かな声が呼びかける。ん?と振り返るのを隣に感じながら、 自分より少し高い位置にある肩に体を預けた。   飛びつかれた渡り鳥が羽を休めるような痛々しさを含んで優希の瞳が 光りを拒む。 「名前を・・・呼んでよ。」 キミ、ではなく ―――名前を。   閉じた瞼を見つめる橙の顔に、喜びの名残は既に無かった。            † † †   何故に、生きる?   ―――なんとなく。                生きている意味がない。   ―――そう。生きるには意味が必要。   何の為に?   ―――理由が必要。   誰の為に?   ―――絶妙で巧妙な、言い訳が必要。                               † † †                  改札を出ると、そこにはもう、果てのない海が広がっていた。               「寒くないか?」               今の時期にしては少し大袈裟なダッフルコートに身を包み、砂浜を波                打ち際へ向かって歩く優希は頷く事で橙の声に答えた。   ブーツが砂に埋まる感触を楽しむようにゆっくりと足を進める。   半分以上水平線に沈んだ夕日が、海を自らと同じ色に染めていた。 時間が経つごとに遠慮なく下がる気温と、海の湿気を吸って重たく打ち 付ける風に橙の表情は険しくなるばかり。そんな橙の気持ちなど気にも 停めず、一人淡々と歩いていた優希の足が不意に止まった。打ち上げら れて随分経つと思われる大木に、白いコートが汚れるのも気にせず座っ た。 「ねぇ。」   冷えきった手を荒々しい木の表面に押し付け、今度は優希が隣に座る ように促した。 「手袋、してくれば良かったなぁ。」   大木の横をぐるっと回り優希のすぐ横まで歩み寄った橙は、敷かれて いる白い手を持ち上げ丁寧に木屑を払ってから示されたその場に腰を下 ろした。   冷たくなっているその手を、暖めるように両手で包む。   夕日に照らされた横顔がなぜかとても遠く感じて、その手を離すこと                が出来なかった。 「そうやって、繋ぎとめてて。」   その消え入りそうな姿で、声で、呟く。命令にも懇願にも取れる口調 で。   流されてしまわないように。   ―――何に? 「当たり前。」  当然と、答えた。身の程を知らないのかもしれない。しかしそれでこ その強さがあると、信じているから。   ―――完全無敵っ!炎のロックンローラーさっ。                一瞬意気込んだかと思うと、何かに思いあたったかのように視線を落                とした。 「けど、鎖をつけてる訳ではないぞ?」 「・・・ヘビメタ?」   またしても、の読心術に、なんでやねんっとつっこむ真似をしておい て、組んでいた足を解き一歩踏み出した。 「俺は・・・錨にはなる。が、君の首に鎖は繋がっていない。」 立ち上がった橙は、優希に背を向けたまま海に向かって歩いた。寄せ る波が靴を濡らし、砂を浚っては返す。   優希からの返事はない。   ―――君の心は何に繋がれているのか。 長い四肢を翻して振り返った橙の表情は逆光で見えないが、優希には 分かっていた。変わっていないから。あの日から。自分を見る、優しい 目。   細身のシルエットが優希に重なり、夕日の色を消した。   この冷たい海が夕日の全てを飲み込むまで、あと少し。既に月の姿も 確認することが出来る。 「厳しいな。」 小さく苦笑した。自分の前から動かない橙に、退くように言った。 「日の入り、見たいんだってば。」 そりゃ失礼っ!と、大股で移動した橙は線路の向こうに見慣れた看板 を発見した。 「お、いいもん見っけ。ちょっと待ってて。」 動くなよ、と釘を刺すことを忘れずに『STARBUCKS』目指して駆け出し た背中を優希の視線が追いかける。   ―――優しいくせに。 体の向きを元に戻して、今度は純粋に形の良い唇を綻ばせた。   大切で、失いたくない。優しい橙。   そして、同じに愛しい彼ら。 「こういうのって幸せなのかなぁ・・・。」   誰に向かうでもない声が海風に浚われ、自嘲だけが残る。   幸せ、なのかもしれない。   橙に包まれていた右手が、まだ微かに暖かく・・・これを幸せと呼ぶの ならば。   ―――幸せ・・・は生きる言い訳に、なる?   せっかくはらってもらった手を再び大木に付け、白い星が散らばる空 をゆっくりと仰ぎ見た。 「・・・はっぴィ。」

→to be next!