ORIGINAL



      ――― 日進月歩1 ―――     風が変わる。  夏の色に。 日ごとに近くなる空を見上げていると、このままこうして待っていれ ばいつか雲に触れられるのではないかと思ったりする。 休み時間の終了を告げるチャイムを、校舎の屋上に寝転びつつ聞いて た優希は不意に腕を伸ばした。本当に届くとは思っていないけれど。 コンクリートの熱が背中に伝わりそれが慰められているようで、急激 な虚しさに襲われた。指と指の間から覗く青い空がそれに拍車をかける。 「もうちょっとなのに・・・。」   言い訳のように呟き、伸ばした両手を交差させて自分の顔の上に下ろ した。 すると風の音に、人の足音が混じった。その足音は階段を駆け上り、 ギィィという鉄のドアが開く音に変わる。   誰かはすぐに分かった。 彼がここに来るのは知っていたから。もう、ずっと前から。 「・・・何、してんの?」   乱れた息を整えようと大きく呼吸しながら、橙は優希の側まで足を進 めた。密かに、安堵のため息を漏らす。 「光合成。」 あまりにさりげなくいうものだから、納得しそうになる。確かに、社 交辞令的質問だったと反省しなくもないが。 「そりゃあ・・・。」 だから、敢えて。 「ご苦労様です。」 労い。               「・・・つっこんでよ。」               「やっぱり?」                不満を述べながらも声音が笑っている優希の傍らに、橙は力尽きるよ               うに腰を下ろした。運動能力は決して低くないが、さすがに準備なしの               10分間ダッシュは相当きく。それも階段込みとくれば尚更だ。額に滲               む汗を前髪をかき上げるのと一緒に拭った。               「良かった。」                ホッとしたせいだろうか、思っていたことが無意識に声になった。                ヒビの入っていた心が、ジワッと修復されていくのが分かる。               ―――居てくれて・・・良かった。               「・・・授業サボってるのに?」                呟きを聞いた優希が上げ足を取るような口調でわざとらしく訊く。               そう、存在していてくれるのならばそれで良い。心配するのを分かって               いて黙って姿を消す、そんな人の気持ちを省みない行動さえも問題なく、               ましてや授業をサボることくらい端から構う所ではないのだ。                しかし、そんな優希の言い様に、橙も負けずに下手な演技で対応した。               「そっ。この時間、課題忘れてどーしようかと思ってたんだ。」               「・・・ふうん。」                明らかに信じていない返事を気にすることなく、いやぁ助かった・・・               と続けながら橙は優希の視線を追うようにして空を仰いだ。               ―――あぁ…なるほどね。                納得が入った。                優希の気を引いたのはこれか、と。               「空が・・・近いなぁ。」                話掛けているのか独り言なのか判別の難しいくらいのトーンに、優希               は何も返さない。橙もそんなことを気にする様子はなく、一拍おいて言               葉を繋げた。               「天上人には下界に降りるチャンスだ。」                またしても、冗談だか本気だか判らない。               「・・・堕ちる、の間違いだろ。」                こちらも同じく。                感情を一切込めず、しかし言い捨てるでもない訂正の言葉に橙は一瞬               息を呑んだが、またすぐに復活しピッと優希を指差した。                「もしかしてっ…堕ちてきた天上人さん?!」               「・・・30点。」                語尾に善処して、と付け加えられる。               ―――・・・。                それから次のチャイムが鳴るまで、二人の間に会話はなかった。                しかし、沈黙が痛いほどの仲でもない。どちらともなく腰を上げ、制               服に付いたアスファルトの粉を掃うと何事も無かったかのように教室へ               戻っていった。   放課後。無断欠席の言い訳を終えた優希と橙は、五分ぶりに職員室か ら解放された。               「しっかし、何故にあれで納得するんだろうか。うちの先生サマは。」                紺の背広に当たり障りの無いネクタイを締めた担任は呼び出した二人               を前に、神妙な面持ちで理由を問った。こういう場面では必ずといって               いいほど担任の眉間には三本ほど縦皺が入るのだが、その壮絶な皺さえ               も優希の前では全くの効力を見せず姿を消すのだった。                決着は一瞬でつく。いつものことながら、伏せ目がちに一言呟くだけ。               『空が…近くて。』                理由は毎回違うが、道理が通っていないという事項はいつでも共通し               ている。                生まれ持っての儚げな顔で振り回す唯我独尊発言に、担任は反抗の言               葉を持ち合わせていなかった。見ていて可愛そうになるほど戸惑った表               情で、そうか・・・と頷き、               『じゃあ・・・気をつけて帰れよ。』                と二人を送り出すのが精一杯らしく、その間約三分。                退室の途中で科学の教師に呼び止められ、近いうちにコーヒーを飲み               に準備室を訪ねる約束を取り付けさせられたこと以外は、スムーズに今               に至っていた。校門の前で待っていた陽と和歌も合流し、四人は肩を並べ               て帰路についている。               「と言うかあの理不尽な言い訳を、悪びれもせず尚且つ全く臆すること                なく堂々と提示できる優希は・・・やっぱり下界の人間じゃないよ。」                陽と和歌を待たせてしまった理由を一通り説明し終えた橙は、若干の               呆れと純粋な尊敬の意を含んだ台詞で締めくくった。               「屋上・・・って、優希焼けなかった?」                初夏にはまだもう少しあるが、そろそろ日差しが強くなってくる今日               この頃。和歌は授業をサボったことより日に焼けるとすぐに赤くなる優               希の肌の方が気になるようだった。               「うん。ちょっと赤くなったけど・・・これくらいならすぐひくよ。そ                れより随分待たせちゃって、和歌こそ焼けなかった?」                自分よりもモデルをしている和歌の方が日焼けは大敵、と優希は和歌               の露出している部分に目をやった。               「平気平気、そんなに待ってないから。ね?陽。」                朗らかに答える和歌だが、何気に話題をふった先からは返事がない。               歩く速度を落とし、珍しく最後尾を歩いている陽の横に並んだ。               「陽?どうかした?」                首を曲げて顔を覗き込む和歌に、陽はやはり何も答えない。かと思う               と急に顔を上げ、前を歩いている橙の背中を鞄で殴った。 「なんで誘ってくれなかったんだよ?!」 突然の衝撃に橙は反射的に振り返る。優希と和歌も次いで足を止めた。                唇を噛み締めて橙を見上げる陽は、自分でも止められない気持ちと戦               っていた。                橙は優希に付き合っただけ、それくらいのコトは陽にも分かる。分か               るのだが・・・言いようの無い孤独感に耐えられない。               「陽?!」                驚いた和歌が思わず目の前にある小さな背中を自分の方へ引き寄せた               が、陽はそれを振り切って一歩前に踏み出した。その勢いに、橙は返す               言葉が見つからない。                先ほど殴られた背中は痛みとは違う何かが残り、熱を持っているよう               に感じる。本気で殴られたとは思っていないが、ギッと向けられた視線               から冗談を言っているわけではないのは判った。               「なんで・・・と言われましても・・・。」                ジリジリと責めるように近づいてくる陽の瞳に、橙の上半身が徐々に               反っていく。                そんなやり取りを傍で見ている優希は、自分が原因であることなど大               きな棚の上にあげて、               ―――怒ってる陽も可愛いなぁ。                などとぼんやり考えていた。                そして、相変わらずだな、とも。                優希としてはもうしばらく陽の膨れた顔を見ていても良かったのだが、               このままだと責められている方の背骨が危ないような気がして仕方なく               口を開いた。               「陽、次は誘うよ。」                突然ではあったがそのわりに無理なく二人の会話を遮った言葉に、陽               は反応良く振り返った。まるで、その一言を待っていたかのように。                そしていつもより少しだけ低い声で尋いた。               「本当に?」                不安だけが詰まった声。                捨てられた仔犬のような目が、痛い。                優希は頷いた。               「必ず。」                痛くて痛くてやりきれない。                昔から異様なほど疎外感に怯える陽に、三人は気づいていた。                太陽が消え、星が現れるこの時間。               「良かった。」                不意に表面化する不安定な感情は誰にも止められない。もちろん自分               自身にも。                こういう時の陽を見るのが優希はとても苦手だった。                今にも泣き出してしまいそうで。               「ありがとう。」                緩んだ表情にも影を残す凍った心。                だから、欲しい言葉をあげる。どんな時でも一番欲しい言葉を。                そしてまた、誰からともなく家に向かい進み始めた。落ち着いた陽の               頭を今度は橙がかき回し、何事も無かったかのように漫才に近い口喧嘩               を始めながら。

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