ユウキ・シリーズ@ ―闇からの呼号― 序〜1


序章

 人間なんて欺瞞なんだわ。
 違う?
 どうして?
(やだ、前の子足ほっそぉい、何かおかしいんじゃないの?)
 もうやめて。
(ちくしょー、何でいっつもハナシなげーんだよ、誰も聞いてないっつうの。)
 もう聞かせないで。
(何こいつ、真っ青だよ、倒れんなよ・・・・・・)
 こころの中なら、何でも平気で出来るんだわ。
 こころの中なら。
 誰にも知られないから。
 それなのに。
 どうして私には分かるの?
(こんなときに寝んなよ、しかも俺の肩にのっかてんじゃねーよ、殺すぞこいつ。)

 コロス。
 そんな言葉さえも平気で言える。
 もうやめて。
 私は聞きたくないの!

 二階の窓から広く帯になって降りる陽光の中に、行き場を 失った埃が舞う。光を通す窓の数は多いが、開けられている ものは一つもなかった。温度は高くはない。ただ、空気が淀 んでいるだけだ。
「新入生代表答辞ー」
 整然とした体育館の中にアナウンスの声が響く。続いて代 表者の名前が読み上げられ、学生服の群の中から一人の少年 が立ち上がる。彼が壇上に立つまでの時間、場内は再び整然 とした静けさの中に沈むはずだった。
 しかし。
それは突然に起こった。その場に近かった何人かの生徒は はっとしてそちらに目を向けた。
 一人の女生徒が、立っていた。
 彼女の椅子の立てた音が静寂を破って一瞬誰もが動きを止 めた。壇上に向かおうとしていた男子生徒も振り返った。
「どうしたんだ?」
 生徒の座る椅子の列を横から見るように立っていた教師の 一人が素早く反応した。狭い列の間を不自由そうに移動して くる。
「大丈夫か?気分が悪いのか?」
 言葉もなく立っている彼女の手は、きつく握られていた。
その力の入れようのためか、肩が小刻みに震えていた。心配 顔の教師の片手がその肩に触れた瞬間、彼女はびくりと顔を 上げた。
「だ、大丈夫か・・・・・・ええっと」
「・・・・・・瀬野です。」
 過剰な反応に思わず手を引いて、取り繕うように重ねて大 丈夫かと尋ねる。
 その問いに頷くこともなく、彼女は教師の脇を抜けた。
「少し、外に行かせてください。」
「あ、ああ・・・・・・。」
 生徒の列のただ中に取り残された教師は、非常用の扉に向 かう彼女の背を呆気にとられたように見ていた。
 扉の開かれるそのときに紛れて、二つの影が静かに動いた。
外の空気に身を置くと同時に、重苦しい頭痛も洗い流され たようだった。この近くには人はいないらしい。それでもも う少し体育館から離れようと、瀬野裕嬉は歩き始めた。
 淀んだ空気。
 季節はずれの熱気。
 頭痛の原因はそんなことではない。そんなことではなくて、 もっとたくさんの声が。裕嬉には人よりも聞こえるものが多 かった。
 耳を塞いでも、激しい拒絶の意志を持ってしても、それは 聞こえてくる。
 人の多いところは昔から苦手だった。
 こころに多くの声が割り込んできた。聞きたいとも思わない、 他人の思念が抗いようのない強制力でこころに届く。
 今日は、特に神経が敏感なようだった。
 呼吸と脈拍にいつもの落ち着きが戻ったのが感じられて、裕 嬉は足を止めた。
 さくらがあった。
 ふいに空が鳴って、風が吹き渡る。ざらざらと枝を揺らして 桜の木がそれに応じた。風が通りすぎ、見上げる裕嬉の上にい くらかの時差をおいて淡色の花びらが降り注いだ。花びらは足 下にも地面を埋め尽くすようにして落ちていた。
「きれい・・・・・・。」
 全部。
 全部こんなふうなら。
 うつくしい面だけを見ていられるなら、どんなにいいだろう。
 人のこころの、うつくしさだけを。
「ひとは、きれいじゃないの?」
 背後からふいにかけられた声に、裕嬉ははっとして振り返っ た。自分と同じ制服を着た、小柄な少女が立っていた。彼女は 裕嬉の視線を受けて、呟くようにもう一度言った。
「ひとはきれいじゃないの?どうして?」
 裕嬉は答えなかった。
「誰・・・?あなた・・・・・・。」
「ひとだって、きたないばかりじゃないと思うな。」
 その言葉に裕嬉は目を瞠った。
 もしかして。
 そんなことが。
 裕嬉は繰り返し問った。しかしその内容は変わっていた。
「あなたも、聞こえるの?分かるの?」
「ちがうよ。そうじゃないけど。」
 少女はゆっくりと裕嬉に近づいた。否定の返事に、それでも 裕嬉は知らず何かを期待していた。
「あなたが私に言ったんじゃないの?私に聞こえたのはあなた の声だけだったから。つらかった?」
「私が?」
 少女は頷いた。
「私があなたに・・・・・・?」
「聞こえたの。もうやめてって。ひとはうそつきだって。だか ら?だからつらいの?」
 裕嬉は少女の問いに戸惑い、何も言えなかった。
 沈黙が圧力を増すよりも早く、少女が視線を桜の木へと転じ た。
「きれいね。」
「え・・・・・・ええ。」
 少女はそれまでも微笑ともとれる穏やかな表情をしていたが、 ふと笑顔を浮かべた。
「ほら。」
「え?」
「きれいなものをきれいだと思うことは、いいから。だから、 ひとはきたないばっかりじゃないと思うの。」
そこへ、新たな声が割って入った。
「思ったより、大丈夫そうみたいですね。瀬野さん。」
 長い黒髪をさらりと流して、もう一人別の少女がいた。
「わざわざ様子を?」
 彼女は首を振った。
「クラスのことは、先生から頼まれているので。」
 裕嬉はその言葉に裏も表もないのが分かって、何気なく笑み を漏らした。
「あなたは正直なのね。」
「心配でしょうがなかったと適当な嘘でもつけばよかったです か?もっとも、あなたにはすぐにばれてしまいますね。」
「え?」
 裕嬉は更に驚いて、最初の少女と今姿を現したばかりの彼女 を見比べた。
「どうして?」
「いえ、そこで立ち聞きをしてしまったので、そうではないかと。 嘘をついても無駄なんでしょう?」
「・・・・・・信じるの?」
 挑みかけるように向けられた裕嬉の視線を、彼女は軽く流し た。
「ええ。」
 そして意味ありげに、こう続けたのだ。
「あなたは、あなたの持つのと別の能力が存在するとは思わな いのですか?」
また風が駆け抜け、花びらを舞い上がらせた。
 そしてこの出会いを、あらかじめ用意されたシナリオのよう に彩る。
 いや、それは偶然などではなかったのかもしれない。
 瀬野裕嬉、清原由美花、龍巳月江。
 三人の能力者は、確かに何かの必然によって巡り会わされた のだ。

「ああっ!」
 舗装の悪いアスファルトの窪みに足を取られて、裕嬉 は今まさにつんのめらんとしていた。その目には勢いで 手提げから飛び出した紙の束が、道路脇の溝に一直線に 向かうのが見えていた。
 しかし、紙束はすんでのところで止まった。
 それでも裕嬉は同じようにはいかなかった。次の瞬間 にはざっと派手な音を立てて地面に膝をついていた。そ の前を遮るようにして月江が立ちはだかった。
「折角の共同研究の結果が台無しになるところでしたよ。 裕嬉でもつまずくなんてことがあるんですね?」
「レポート気にしてたら、自分を心配してる余裕がなかっ たのよ!」
「ま、何にせよこれが無事で何よりです。」
 月江がちょいと人差し指を動かすと、空中に静止してい た夏休みの宿題はふわりと彼女の手元に戻った。
 夏服の短い袖から出た腕にはうっすらと汗がにじむ。そ こについた細かい埃は払ったところで完全にはのいてくれ そうにもなかった。裕嬉は顔をしかめて立ち上がる。いつ までも見下ろされていては気分が悪い。
 出会いの時から季節は巡り、既に夏も終わりに近くなっ ていた。
「で?月江ってば、そのすばらしい念動力を親愛なる友の ためには使ってくれないわけ?」
「当然でしょう。人は時には厳しくならねばなりません。 大体流石に人一人浮かしたら、人目に付きますよ。」
「まあね、仕方ないけどねえ。・・・・・・ところで由美花は?」
 月江は腕の時計に目をやった。
「これから迎えに行きましょう。新学期早々、遅刻になる のだけは避けたいところなんですけど。」
「この暑い時期によく寝坊できるわよね、感心しちゃうわ。」
「寝てたら暑いも何もないんじゃないですか?完全に寝つ いてれば、ですけど。」
「う〜ん、そーねー。」
 ものの五分も歩かないうちに由美花の家は見えてくる。
しかし見えてくるだけであって、入り口にたどりつくにはも う少しを要した。彼女の家は近隣にも類を見ない敷地面積と その精巧な造りを誇っていた。壁は白塗り、広い芝生の庭に 噴水。季節の花が咲き乱れる花壇。門からは高級車の並ぶガ レージも見えた。ご令嬢というやつである。しかし驚くべき ことには、そこを訪れた残りの二人もそれぞれに似たような 身の上であるためにあまりどうという感想も抱きはしない。
 二人は問の前に立ち、少し迷ったが中に入ればまた余計な 時間をとるのでインターホンに手を伸ばした。月江が名乗る よりも早くスピーカーから威勢のいい女性の声が返る。
「龍巳様に、瀬野様ですねっ!少々お待ちください!」
 裕嬉はこの清原家常勤の若い女性の苦労を思って声をかけ た。
「苦労しますね、片岡さんも。」
「苦労なんて!してますよ!でもお嬢様のためですから」
もちろんこのお嬢様というのは由美花のことである。
「それではー」
 インターホンの会話が途切れる寸前、遠く由美花の声をマ イクが捕らえた。
「片岡さん、傘ー。」
 裕嬉が月江を見ると、彼女も同じように裕嬉の顔をまじま じと見返した。
「傘って言いましたね。」
「言ってたわね。」
 熱気を帯びたアスファルトは、早い時間帯にもかかわらず 強い照り返しで鈍く輝いている。空は澄み渡り、ただ西の空 に一直線に並ぶ雲があるだけだった。それも積乱雲のような 夕立をもたらすような雲には見えなかった。
 それでも。
 由美花がそう言うのであれば・・・・・・。
「お待たせ!」
 白い繊細な造りの門扉を押し開けた由美花は、鞄と一緒に 柄が変わったデザインになっている傘を手にしていた。月江 はそれを確かめるように見てから尋ねた。
「・・・・・・降りますか、雨。」
「うん。」
 由美花はあっさりと言った。裕嬉は既に背を向けて歩き出 しながらも溜息をついた。
「あああ、由美花が降るって言ったら、降るわよねえ・・・・・・。」
 見上げる空はこんなにも清々しい朝を演出しているという のに、雨が降り出すとは実感できない。それでも由美花の言 うことが現実に起こりうることは理解していた。
「最近ますます百発百中に近づいてますからねえ。本当に予 知ではないんですね?」
「違うよぉ、ただカンがいいだけだって。見えるわけじゃな いもん。何となくそんな気がするの。」
 由美花には裕嬉や月江のようにはっきりとした能力がある わけではなかった。本人の言う通り、彼女はただ人よりも少 し勘がいいだけだった。事も無げににこにこしている由美花 を見遣って月江は思う。入学式での裕嬉との一件といい、由 美花は特別感受性が強いのだろう。それは超能力と呼ぶには あまりにささやかなものであったが。
「・・・・・・濡れて帰るしかないわね。」
「裕嬉、私もですよ。」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 裕嬉はその月江の笑顔から言葉以上のものを読みとること はない。
 裕嬉は春からの短い間に力をコントロールすることを覚え た。裕嬉が他人の思念を捉えるのは、丁度ラジオや無線のア ンテナが電波を受信することに似ている。今までの裕嬉は心 の回線をいつも無防備にオープンにしているようなものだっ た。だから裕嬉が心の声から精神を守るためには、ラジオの チューニングのように回線を心の声と合わないように変える か、アンテナをしまってしまうかだった。裕嬉は主に後者の 方法をとった。自分を取り囲む壁のようなものをイメージす ることによって、アンテナを閉ざしてしまう。それがうまく いけば人通りの多いところでも誰かの声が聞こえることはな かった。そして逆に、相手に接触すればよりその人の心がよ く見えることも分かった。
 思えばこの方法を提示したのも月江だった。
 彼女は裕嬉よりも早く自分の特異な体質を自覚し、更に肯 定的に受け入れコントロールすることを考えた。一見月江の 力は裕嬉のそれほど害があるようには思えないが、以前は感 情が高ぶると能力が暴走して大変だったのだという。突然触 ってもいないグラスが割れたりしたのだそうだ。彼女は集中 力と平常心を養うために日々弓をひいている。
「それよりも裕嬉、時間の心配した方がいいみたいですよ。」
 月江に言われて腕の時計を見た。裕嬉は手提げを掴み直す。
「走るかな。」
「いやあ、ごめんね。」
 由美花が小さく手を合わせた。
「いいってことよ!」
 全力疾走の甲斐あってか、校門をくぐった直後に三人はチ ャイムの音を聞いた。後ろでは生活指導の教師が違反切符を 切り始めている頃だ。
「裕嬉、気をつけてくださいね。」
 ふと思いついたように月江が言った。
「・・・・・・うん。」
 今日は始業式がある。一カ所に人が集まるとどうしても感 覚が敏感になってしまう。そういうときには心の声から耳を 塞ぐのにいっそう集中力がいる。月江はそれを気遣ったのだ。
「大丈夫よ、ありがと。」
「二人とも教室入るの遅くなっちゃうよ!」
 由美花が二人の前を走り出す。
 彼女たちの学校はいわゆる裕福な家庭のための贅沢な設備 を数多く備えており、言い換えれば不必要なほど、異常に敷 地が広かった。従って、校門から校舎までもかなりの距離が ある。
「もうひとっ走りですね。」
 月江が軽く息を吐き出した。

「うー、これ難しいわよ、大体何で遅刻で居残り数学 テストなの?」
「それは担任が数学教師だからでしょう。・・・・・・でも これ解いたら遅刻帳消しですし。」
「でもコレ、かなり難しいよ?」
 三人の前には多々一題の数学の問題があるだけだっ た。しかも麗しの女性教師、山口教諭は、三人がかり でもこれが解けようものなら遅刻はなかったことにす るとのたまったのだ。それだけこの問題の難度が高い ということだ。
 しかし他にも遅刻者がいた中で三人にだけこんなこ とを言ったところを見ると、おそらく山口教諭は期待 半分、自信半分の心境でいるのだろう。三人の成績は 上から数えた方が圧倒的に早かった。
 そして裕嬉達も遅刻の一日分くらいもはやどうでも よかったが、出された問題に簡単にギブアップするの は沽券に関わる。
 裕嬉はベクトルの矢印で思考の余地もないほど混乱 した計算用紙に消しゴムを走らせた。ところが。
「うわ」
 不吉な音がして紙は妙な形に分裂してしまった。紙 の質からいってそう何度も消しゴムをかけられるはず はなかったのだ。
「あ、これどうかな?」
 由美花が新しく書き直した六面体の一部に垂線を入 れている。裕嬉はダメダメと首を振った。
「それさっき、私がやったの。ほら」
 破れた計算用紙を手渡すと、由美花は素早く目を通 しそして机に沈没した。
「こんな計算やってらんないよー。」
「そうよ全くだわ。・・・・・・由美花パース!」
「え?」
 裕嬉が今まで弄んでいた消しゴムをふいに由美花に 放った。しかし由美花は咄嗟のことで反応が遅れた。 白い塊はあろう事か取り損ねた彼女の後ろ、窓枠を越 えてしまった。
「ちょっと由美花、とろいわよ。」
「いやあん、そんなこと言ったって。」
 ガタガタと机を鳴らして窓枠から下を覗くとーあっ た。消しゴムは下の階との境目にあるひさしの上に落 ちていた。手は届きそうもない。
「・・・・・・頼もうか。」
 裕嬉は下を確認した。人は、いない。それを受けて、 由美花が月江を呼んだ。
「月ちゃあん、消しゴム取ってくんない?」
「仕方ないですね。」
 月江は立ち上がりついでにそれまで熱心に見ていた 計算用紙をぐしゃりと丸めた。もうお手上げといわん ばかりだ。
「どれーああ、あれですね。」
 月江にとっては簡単なことだった。ちょっと意識を 消しゴムに集中させると、消しゴムはふわりと浮いた。 裕嬉が手を伸ばしてそれをとる。必要以上に力を使う こともない。
「さーんきゅ。」
「いえいえ。・・・・・・もう、私は根気がつきました。ダ メですよ、あれは。」
「私も。でも悔しいわね、やっぱり。」
「一応コピーでもとって持って帰ってみようとは思う んですけど。今、頭沸騰してて解けるものも解けませ んよ。それに、暑いですしね。」
 月江は机の上に置いてあったハンカチを取った。午 後に入ったので陽差しはいっそう強くなっている。
「これ以上、貴重な資源を無駄にするのもよくないで しょう。」
 月江が目で示した机上には三人の使った紙がばらば らと置いてある。裕嬉は肩をすくめた。
「なるほどね。・・・・・・由美花?」
 裕嬉が呼んでも由美花は顔を上げない。月江もすぐ に由美花の様子がおかしいのに気が付いた。
「由美花?どうかしましたか?」
 二人が歩み寄ると由美花は小さく頷いた。額に汗が 浮かんでいる。
「ん・・・ちょっと・・・」
「とりあえず座りましょう、ね?」
 裕嬉がひいた椅子に由美花は崩れるようにして座り 込んだ。呼吸を整えるように大きく息をした。裕嬉は 震える手を上から包み込むようにして握る。
「大丈夫?どうしたの?」
 由美花は唇を舐めて言葉を吐き出した。
「声が・・・誰かの声が聞こえる・・・怖いって、すごく。」
 それを聞いて裕嬉は月江を振り仰いだ。
「テレパシーですか?すごく強い。」
「うん。」
 強い思念は受け取る側にも影響を与える。それは共感 と言ってもいい。
 月江が由美花の鞄を自分のと一緒に手にした。
「とりあえずここを離れましょう。つらいかもしれませ んが。裕嬉は大丈夫ですか?」
「ええ。ガードが効いてるみたいよ。でもなんなのかしら?」
「分かりませんが・・・・・・今は由美花が心配です。」
 裕嬉は由美花を支えて立ち上がった。
「こういうときに限ってなかなか閉まらないのね。」
「んんんん、も少しなんですけど。」
 建て付けの悪い戸がガタガタと音を立てる。錠が下りない のだ。月江は目を閉じた。
 ふいにがちゃりと音がして錠が下りる。裕嬉はそれを見て 眉を寄せた。
「急いでると見境がないわねー。」
「急いでますから。」
 月江はしれっと答えた。
「おい、どうかしたのか?」
「あ、松坂先生。」
 階段を上ってきたところらしい教師が立っている。彼 は化学担当で、いかにもな白衣をいつも身につけている ので校内でも目立っていた。その目は今由美花に向けら れている。
「気分が悪いのか?保健の先生は・・・・・・もう帰ったかな。」
 保健室のある方を振り返って考えあぐねている松坂 に裕嬉が言った。
「多分、外の空気に当たれば良くなります、大丈夫 ですから。」
「そうか?」
「ご心配おかけしました。」
 月江が完全無欠の笑顔で会話を打ち切った。一刻も 早くここを離れたいのだ。
「鍵の方は私が返しておきますから、先に帰っていて ください。途中で追いつくか、由美花のうちで会いま しょう。」
 この無駄に広い学校では鍵の返却にさえやたらと時 間がかかってしまう。
「オッケー。」
 渡り廊下で別れて歩き出す三人の背を、松坂は心配 顔で見つめていた。
 窓の外には朝の天気が嘘のように低く雲がたれ込め、 雨粒がいくつか窓ガラスを叩いていた。
 三十分後、三人は由美花の部屋で落ち着いていた。 楽な部屋着に着替えた由美花はすっかりときぶんも 良くなったようだ。
「怖いって気持ちがね、どっかから届いたの。」
 ベッドの縁に腰掛けて由美花は考え込むようにして いる。裕嬉は重ねて尋ねた。
「他には?何が怖いとか。」
「分かんない。ただすごく怖いって、そればっかり・・・・・・。 何が怖いのかわかんなくてそれがまた怖いみたいな。」
「強迫観念みたいなものでしょうか。」
 月江が呟いた。その手には厚手のタオルがある。 一人遅れて帰った彼女は予想通り濡れて帰る羽目 になったのだ。
 由美花がそうかも、と答える。
「それから・・・・・・、そう。学校の屋上が見えた! 一瞬だけど。」
「屋上?」
「・・・・・・というか、屋上から下覗いたみたいな。」
「ぞっとしませんね。」
 高所恐怖症の気がある月江が言う。
「屋上って言ったらあの時間だとダンス部とか使ってない?」
 体育館が運動部の活動によって満場なので、 ダンス部は別館の小ホールか、屋上を使っている ことが多い。裕嬉はそれを思い出したのだが、月 江が否定した。
「いえ、それはないでしょう。明日テストがあります から、今日は・・・・・・。」
 テストという単語に裕嬉も由美花も肩を落とした。 よく考えてみるまでもなく明日は、学期初めの実力テ ストの日である。
「私たちもこんなコトしてる場合じゃないかも。」
 由美花が提案した。
「んじゃ、ここでこのまま勉強会ってのは?」
 二人は一も二もなくそれに賛成し、その話題もこれっ きりになるはずだった。

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