ユウキ・シリーズ@ ―闇からの呼号― 2


ーどうして私はこんなところに立っているの?
 恵美はぼんやりと足元を見た。熱気を帯びた コンクリートにぽつりぽつりと大粒の黒い染み が増えていく。更にその一歩先には、遥か下に 植え込みの緑や誰かに忘れられたバレーボール の白い球が小さく見えた。
ーああ、死のうと思ったんだ。
「どうして?」
 疑問はそのまま声になって、それで初めて恵 美は考えた。どうして死のうと思ったのだろう。 どうして。理由なんて何もないのに。
 そう、理由はーない。
 空が低くて重苦しいから。
 何かつまらないし。
 そんなこと?
 違う。そうじゃない。
 そうだ。だったら、自分は。
ー死にたくない!
 しかし、気付いたときにはもう遅かった。
 彼女の片足は地面を踏んでいなかった。そのまま、 夢の中のように空へと身を踊らせる。
 浮遊の感覚はすぐに落下のそれへと変わる。耳元 で空気が鳴る。手足が自由を失う。身体の奥にかか る重力の負荷。
 そして、地面が。
(いやー怖い!)  彼女の最期の声は鋭く宙にこだました。
 それは残像のように空気に刻まれ、見えざるパル スとなって広がっていく。空間と、時さえも超えて。

「何だか騒々しいわね。」 「・・・頭に響くよう・・・。」
「由美花はまた徹夜なんですね?」
 裕嬉の言う通り、学期初めの試験の朝とは思え ないほどに教室は騒然としていた。普段なら席に 着いて問題集や参考書に目を通している生徒の方 が多数を占めているのだが今朝は様子が違う。席 に向かう裕嬉をすぐ横の女性とが呼び止めた。
「瀬野さんお早う。」
「おはよ、昨日教室の鍵ちゃんと返しといたから。」
 彼女が昨日日直だったことを思い出して裕嬉は 言い足した。ありがとうと返して更に彼女は続けた。
「あの、ね。昨日瀬野さんたち遅くまで残ってたじ ゃない?その、何か見なかった?」
「え・・・何かって?」
 裕嬉は尋ねられたことの意味が分からない。そこ で月江が気付いて問い返した。
「昨日、学校で何かあったんですか。」
「知らなかったんなら、何も見てないかぁ。あのね、 昨日学校で自殺した子が今朝見つかって。」
「自殺!?」
 それまで昨夜暗記した英単語の方に夢中だった由美 花が声を上げた。
「うん。第二校舎の屋上から飛び降りたって話だけど。 だから中庭は立入禁止なのよ。」
 中庭に面した教室の窓に数人の生徒がたむろしてい る。警察の現場検証が行われているのだという。
「自殺・・・・・・。」
 衝撃的な出来事に言葉を失って、三人は曖昧に頷く ばかりだった。
席着いて裕嬉の指導のもと作成された世界史必勝ノー トを開いた由美花だったが、その内容は少しも頭に入っ ては来ない。
「なんかさ、ショックだよね。」
「同級生だって言うしね。なにか、えっと、岡田さん? とかって後ろの方で言ってたけど。」
 裕嬉の表情も暗い。
「岡田さんってFの人ですよね?」
「他に岡田っていなかったと思うけど。」
 月江が問い、裕嬉は少し思案して答えた。ちなみに裕 嬉たちのクラスはDだ。
「私、その人選択の授業で同じ講座だったんです。」
「そっか・・・。余計にショックだよね。」
「自殺するような人には、見えなかったんですけど ね。夏休みの間に何かあったんでしょうか。」
 由美花が大きく溜息した。
「死んじゃったらさ、どうしてそんなことになった かだなんて誰にも分かんなくなっちゃうのにね・・・・・・。」
 そしてこう続けた。
「誰にも分かってもらえないって、そんなの、寂しいよ。」
「そだね。」
 裕嬉も、そして月江も教科書に目を落としてしまった。

「今日、由美花はお休みだそうです。」
 いつもの角で会うなり月江が言い、裕嬉は目 を丸くした。
「珍しいこともあるものね。」
「夢見が悪かったのだとかで。」
 何気なく頷きかけて、裕嬉は思い直して尋ねた。 夢見が悪いとはどう言うことだ。
「何、それ?」
「例の同調、です。一昨日の教室での・・・・・・。」
「あの屋上の風景ね、アレがずっと見えてるのか。」
「そうなんですよ。落ち着くこともあるようです から、放課後にお菓子でも持って伺ってみますか。」
 片岡さんからの電話を思い起こして月江が言っ た。由美花は一般的な女の子の例に漏れず、甘い ものが大好きだった。他に何もしてあげられない 思いを飲み込んで裕嬉もそうねと答えた。
 昨日の自殺騒ぎに加えて由美花のいないことも 手伝い、時間が早く過ぎていくような感じがした。 元素記号の並んだノートをぱたと閉じたところで 裕嬉は教壇の松坂から声をかけられた。
「瀬野、実験ノート集めて準備室の方持ってきて くれないか。」
「・・・はい!」
 昼休みなのに、と低く呟く裕嬉に気付いて月江 は笑った。教師に対しては厭がっているそぶりな ど少しも見せていないのだが。それこそが裕嬉に 頼まれ事が多い最大の理由であると本人は気付い ているのかどうか。
「そゆうわけだから。」
「私もちょっと用事を先に済ませてきます。」
「用事?」
 裕嬉はクラスメイトから手渡されるノートを揃 えている。
「気になることがあるのでちょっと図書館へ。後 からお教えします。ところで私、今日は学食なん ですけど?」
「あ、私も。それじゃ食堂で待ってて。」
「分かりました。」
 積まれたノートの影から手を振る裕嬉に同じく手 を振り返して月江は教室を後にした。向かう先は図 書館だ。今朝は新聞に目を通していないのだが、月 江には気にかかることがあった。
 渡り廊下にさしかかる。
 月江たちの教室のある第三校舎と図書館のある第 四校舎をつなぐ渡り廊下は屋根と手すりが取り付け られただけのものだ。昨日のこともあって三階とい う高さを肌で感じてしまう。
「岡田さんはもっと高いところから・・・・・・。」
 死という感覚以前に純粋な高さへの恐怖がそこに は厳然として存在したはずだ。それに付随する危機 感も。それさえも乗り越えて、彼女に足を踏み出さ せたのは何なのだろう。それはある意味、強い意志 とさえ呼べるのかもしれな或いは、死の恐怖よりも 濃い絶望か。何が、彼女を追いつめたのだろう。
 死者が語ることはない。
 月江は図書館に入ってすぐ、ロビーのようなとこ ろで新聞を手に取った。一面には目当ての記事はない。
「ってコトは三面ですかね。」
 月江のにらんだ通り、三面の下方、広告欄の上に 『N県女子高生自殺』と題された小記事が掲載され ていた。昨日の自殺騒ぎの記事だ。月江はその中盤 に目を留める。
「やはり・・・・・・。」
 そのまま受付に向かう。
「すみません、この部分コピーお願いできますか。」
 死亡推定時刻午後三時三十分。
 月江の目はそこに向けられていた。
「失礼します、松坂先生は」
 教室が北側に面した第二校舎ー通称実験棟は四つあ る校舎の中で最も古く増改築が不自然に重ねられたた めか採光が悪く何処か陰気で冷たい空気が漂っていた。 裕嬉が訪れた化学準備室も等しくその条件下にある。 今その部屋の中、松坂のデスクの前に一人の女生徒が いることに気付き、裕嬉は口をつぐんだのだが。
「瀬野、今終わったから。もういいぞ。」
 裕嬉の横を知らない生徒が通り抜けて部屋を出てい った。すれ違いざまに目があったが彼女の方で慌てて 目を逸らしてしまった。
「先生、ノートです。」
「ご苦労。ところで、さっきの子、知ってるか。」
 なんのことだと内心首を傾げながらも正直に言った。
「いいえ。」
「まあ、当然なんだけどな。瀬野だから言うんだが、 その、六月くらいから学校に来てなくてな。」
「登校拒否ってヤツですか。」
「そうだな。それでまァ、いろいろあって僕が相談に 乗ってたんだが、新学期だし気持ちの切り替えにはい いからって、最近学校には出てくるようになったんだ よ。ちょっとこう、被害妄想があるみたいでね。実際 にはそんなことないのに、無視されてるとか、そうい うふうに思えてしまうらしい。だから見かけたらなる べく声かけてやってくれないかな。」
 裕嬉は気付かれない程で息をついた。
「一応気には留めておきますけど。でもそういうのっ て私がなんの脈略もなくいきなり声かけてどうにかな るものでもないですよ。」
 松坂は苦笑した。
「それもそうなんだが。でも、あの子もここのところ 前向きになってきてるから少し安心はしてるんだ。」
「はァ・・・。」
 裕嬉は時計を気にしていた。いつも何かとこの教師 には呼び止められてしまう。よく言えば気に入られて いると言うことか。仕方なく自分から切り出す。
「友達待たせてますから、そろそろ失礼します。」
「ああ、時間取らせてすまなかったな。」
「いえ。」
 謝るなら最初から呼び止めるなとは口が裂けても言 えなかった。例え同じ事を思っていたとしても。
「おばさん、竹の子ご飯残ってる?」
「はい、最後の一つだよっ。」
 カウンターに勢いよく置かれた茶碗を裕嬉は自分の トレーに乗せた。食堂はセルフサービスになっていて カウンターやクールボックスから好きな品を選んでレ ジで一括精算する形式になっている。昼休みが始まっ て長いためか、カウンターには日替わりのプレートが 残るばかりだ。今日の日替わりカキフライ、の札が目 入る。
「ま、いっか。」
 レジを抜けると窓際で月江が軽くこちらに向けて手 をあげているのが見えた。両側に椅子のある狭い通路 を抜けて裕嬉はそこまで辿り着く。
「お待たせ。」
「私も今来たところですから。やはり裕嬉も日替わり ですか。」
 裕嬉は月江の向かいの椅子をひいた。
「そ。他に残ってなかったでしょ。」
 二人とも食事は早くものの十分もすれば食器は空 になっていた。立ち上がろうとする裕嬉を月江は引 き留めた。
「これを見てください。」
「新聞記事のコピー?」
 差し出された紙片を受け取ってしばらく目を通し た後に尋ねた。
「ウチの自殺騒ぎの記事ね。これが気にかかってること?」
「そうです。死亡推定時刻を見てください。」
「三時三十分ってもしかして、由美花が屋上の風景が見 えるって言って気分悪くしてたとき・・・・・・。」
 月江は大きく頷いた。
「ええ。恐らくその自殺した岡田さんの思念みたいなも のを由美花は感じたのではないかと思うんです。」
「なるほどね・・・・・・。じゃあ、由美花がその後も繰り返 して・・・そうね、同調とでも言うか、そういう目に遭っ てるのはどうしてなのかしら?」
「そこが私にも分かりにくいのですが・・・残留思念、で しょうかね?」

「本当に気分悪くて学校やすんだ人間とは思えな いわよ、由美花?」
 今朝月江が提案したとおりキルシェのケーキを 手に清原邸に見舞いにやってきた二人だったが、 由美花は見舞いという言葉が似合わないほどには 回復している様子だった。その証拠に今も、誰よ りも早くナポレオンショートを食べ終えてしまった。
「うーん、午後に入ってからは結構調子よくって。」
「じゃあ、もう例の夢を見ることはなくなったんですね?」
 月江が苺をフォークで突き刺して言った。
「うん。」
「どうしてかしらね?」
 裕嬉は由美花のために箱からシュークリームを取 り出している。由美花はベッドに腰掛け、二人は絨 毯の床で足を崩していた。
「そもそも何で同じモノ何度も見たのかな?一回目は ・・・その、同調だとしても。あ・ありがと。」
 由美花にシュークリームの乗ったケーキ皿を手渡す。
「ああ、それは月江が残留思念?じゃないかって。」
「・・・・・・気持ちが残って留まっちゃってると。 それって教室の椅子と一緒だね。」
 一人で納得する由美花だったが、二人は手を止め ていた。
「教室の椅子?」
「由美花、私たちにも分かるように言ってくれませんか。」
「あ、だからぁ、誰かが立った直後の椅子ってこう 生温かいじゃん。それと一緒かなって。」
「まぁ、そういわれるとそんなもん・・・・・・ああ、だから 消えちゃうんだ。」
「そうなりますね。」
 今度は由美花が問い返した。
「何?」
「由美花午後に入ってからは何も見ないんでしょ。生温 かい椅子もしばらくすると元に戻るじゃない。それと一 緒って事よ。」
 要するに由美花の感じた念は、一瞬に発せられたもの の余韻に過ぎなかったわけで、継続した思念ではないし まして当人が死んでしまった今となっては次第に薄れて いったということだ。
「何かそんなこと考えるとユーレイとかも信じちゃいそう。」
 由美花は目の前のシュークリームを手づかみにする かフォークを使うかで迷っている。裕嬉は溜息した。
「確かに残留思念=ユーレイってありかもね。」
「じゃあ、由美花に起こったことは心霊現象って事にな りますね。確かに、超能力にしたって 心霊的なことに したって精神に関わるって点では同じですからね。案外、 心霊現象の正体っていうのは私たちの側からすれば超能 力なのかもしれませんね。」
 月江もそう言った。
「単なる捉え方の違いってわけね。」
 呟いてふと由美花を振り仰ぎ、裕嬉は眉を寄せた。由 美花が気むずかしい顔をしている。
「どうかした?」
「いや、何か心霊っぽく考えると妙に怖くなっちゃっ て。だって死んじゃった人の気持ちを感じてたわけだ よね、私。なんかやだなぁ。」
 裕嬉は笑った。
「だったら何か無念なことがあって由美花に訴えてる のかもよ?う〜ら〜め〜し〜や〜」
「もーやめてよ、裕ちゃんってばッ。」
 由美花の放った枕を抱き止めた裕嬉は月江が一人ま じめな顔をしているのに気が付いた。
「どしたの、月江。」
「いえ、その無念なこと・・・があるんじゃないかと。 本当に。」
「どういうこと?」
 月江は昼休みの間にF組の様子も見てきたのだと言う。
「そのときに岡田さんのご友人から話を伺ったん ですが、二人で映画の前売り券を購入したんだそ うです。今度の日曜が封切りの。」
「・・・・・・気になるわね。」
 裕嬉の表情も変わった。
「でしょう?映画なんて些細なことかもしれません けど、それでもこれから自殺しようなんて人がそん な約束をするでしょうか。或いは、その約束をして から自殺するまでのそんな短い間に、死を覚悟する ような出来事が起こるでしょうか。」
「そうよね・・・・・・自殺なんて重大決定をそんな短期 間でするとは思えないわね。」
 由美花が口を挟んだ。
「でもこれから死のうって人でしょ。約束とかいろ いろそんなの気にしてないかもよ?」
「私は、人間って結構単純だと思うんですが・・・・・・。」
 気になるドラマの続き、食べたいお菓子、そんな ものでも生き甲斐になると、月江はそう言いたいの だ。そういう些細な日常の喜びを凌駕する絶望がな ければ自殺など出来ない。そして自殺した岡田は映 画のチケットを持っていた。それは、彼女にまだ些 細な楽しみがあったことを意味するのではないか。
「けど由美花の言うことも最もって気もするわね。 あ、でも岡田さんて自殺するような人じゃなかった ってみんな言ってたわね。」
「あ〜、頭ぐるぐるする。」
「どちらにしてもこれから先は警察の仕事ですね ・・・・・・あ」
 月江は思い立って鞄から一枚のプリントを由美花 に差し出した。
「ありがと、何?」
「明日までの課題ですよ。」
 月江が答えるのと由美花がプリントに難解な数式 を認めるのとはほぼ同時だった。
「ま。がんばってね。」
「・・・・・・ありがと。」
 由美花は苦笑いして肩を落とした。

 それは日曜の夕方だった。
 週に一度のピアノのレッスンを終えて講師を 送り出した裕嬉の耳に電話のコール音が飛び込 んできた。父も母もあいにく外出中で家には裕 嬉しかいない。
「もしもし、瀬野ですが・・・・・・あ、私よ。何か 連絡?」
 クラスの連絡網がまわってきたのだった。相 手に先を促してなくしたかもしれない連絡表を 探す裕嬉の手が不意に止まった。
「うん、分かった。ありがとね。え?私が最後 なんだ。それじゃ。」
 受話器を置く裕嬉の表情は沈んでいる。
 岡田恵美の自殺からたった五日。また自殺者が でたのだった。
「それも同じクラスの人なんてね・・・・・・。」
 何を思っていいのか、自分の感情さえもままな らない混乱が頭を占めていた。

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