4
由美花からの電話を受け、その後の裕嬉の
行動は早かった。月江に連絡をし、二人で学
校に駆けつけたのはまだ午前六時だった。
三人は渡り廊下のひさしの下にいた。
「ここに来るまで、誰にも会わなかったわね?」
裕嬉は敢えて感情を殺し、事務的な口調に
徹した。そうしていなければ、裕嬉自身自分
を見失ってしまいそうだった。冷静な判断が
必要だった。
やや落ち着きを取り戻していた由美花は裕
嬉の問いに黙したまま首肯した。月江が頬に
貼り付く長い髪を指先の動きで払った。
「それが、肝要ですね。」
三人は濡れたままだった。由美花と同じ状
況であったと偽るために裕嬉たちも傘を持た
ずに家を出たのだ。
「由美花はまた・・・・・・あの人」
裕嬉は遠く地面に倒れたまま動かない人影
を見遣る。
それはとても生身の人間とは思えなかった。
生命感がない。まるで、ここそこにある物体
・・・・・・無機物と等しい存在感しかない。死体
なのだ。確かめたわけではないが、はっきり
と分かる。恐怖や悲しみよりもあっけなさを
感じた。こんなものなのかと。こんなにも簡
単に肉の塊に変わってしまうということ。
残るのは、心の残像だけ。
だからこそ、誰かが故意にやっていること
だとすれば許し難いことだった。
「あの人と同調したのが分かって、それでこ
こへ来たのね。」
「・・・助けられるかも知れないって思った・・・
でも無理だった・・・・・・!」
強く握りしめた由美花の両手を月江がやわ
らかく自らの手で覆った。
「これからのことを考えましょう。改めて第
一発見をしなくては。」
現実問題を処理しようとする月江の姿勢は
正しいと言えた。目の前の死に囚われ続けて
いては、やりきれなくなる。自らの命にさえ
不安を感じてしまう。
裕嬉が途切れた言葉をつなぐ。
「ガラスを壊した言い訳とはレベルが違うけ
ど、基本は一緒ね。」
「それに多少辻褄が合わなくてもこの場合・・・
私たちは本当には壊してはいないわけですから。」
由美花の電話に、自分でもそのときどうして
そこまで頭が回ったのかは分からなかったが、
裕嬉が咄嗟に考えたのは由美花に妙な疑いがか
かりはしないかということだった。気の動転し
ている由美花を第一発見者として一人で警察に
出頭させるのは危険だ。まだ三人で口裏を合わ
せた方がいい。
「そのまま見なかったことにする・・・ってわけ
にもいかないわね。」
「もし万が一誰かが学校に向かう私たちを見て
いたらということもありますからね。」
多少の時間のずれは誤魔化せるとしても、目
撃証言そのものを消すことは出来ない。三人と
もあからさまに誰かとすれ違ったとかそういう
ことはないのだが・・・・・・念のためだ。
「嘘・・・・・・つかなきゃいけないんだね。」
由美花の言葉に裕嬉は顔を伏せた。
素直に同調のことなど話してみたところで馬
鹿にされるかー悪くすれば精神異常、更には殺
人の誤魔化しともとられ兼ねない。そして信じ
てもらえたにしてもそれはそれで別の問題が生
じてくる。仕方のないことだった。
「・・・・・・ごめん」
俯いたままの由美花の口から雨音に消え入り
そうな声が漏れた。その肩を軽く叩いて裕嬉は
答えた。
「何言ってるの、きっと私でも同じようにしたわ。」
「そういえば、裕嬉は何も見なかったのですか?」
月江が気が付いて尋ねた。裕嬉もその意を介し
てこう答える。
「見たには見たけど、前に見たのと大して変わり
はなかったから、まさか今起こってることだなん
て気が付かなくて。」
「じゃあ何故由美花は」
「雨が、降ってたから・・・・・・。」
その言葉に月江も裕嬉も反射的に空を見上げて
いた。絶え間なく水の粒を投げかける空を。
「そういえば、私は雨になんて気が付かなかった
わ。同調なんていっても夢と同じで頼りないものね。」
「本当にそうでしょうか・・・・・・」
顔をしかめる月江に裕嬉は軽く言った。
「他の誰か・・・今までに自殺した人と同調したのかも
しれないし・・・・・・あ」
言葉の途中でふいに裕嬉は向かいの校舎の影で動
くものに目を留めた。二人に待つように言い置いて
雨の中を走り、またすぐに戻ってきた。その腕には
濡れた毛のために随分みすぼらしくなってしまった
子犬がいた。
「言い訳はこれで良いんじゃない?昨日の内にこの
子を見つけていた私たちは朝目が覚めると雨に気が
付いて、心配になって捜しに来た。傘は咄嗟だし、
この子を捜し回るのには邪魔だから持ってこなかっ
たーちょっと強引だけどまあまあでしょ。」
裕嬉は自分が自然にいつもの口調に戻っているこ
とをぼんやりと自覚する。すぐ近くで人が死んでい
るということは分かっていた。だが実感はなかった。
というよりは、感覚が飽和しているのかもしれない。
そうでもなければ、やっていられないのだ。固く閉
ざしているはずの精神に、それでもまだ響いてくる
声を感じる。
死にたくない、たすけて、と。
それはもう手の届かない暗い淵へと沈んだ者からの声。
それでも絶えることなく発信される、闇からの呼号ー。
何とか事情聴取から解放された三人はその足で由美
花の家に集まっていた。学校は午後から登校というこ
とになったようだが、担任から無理に来なくても良い
と言われたのだ。裏を返せば、他の生徒が黙っていな
いだろうから今日は登校を控えて欲しいということだ
ろう。
それに精神状態の不安定な由美花や裕嬉にとって学
校の空気は同調現象と比べれば緩慢とではあるが確実
に苦痛を与えるはずだ。
「少し、大丈夫っぽくなってきたかな。」
ようやくここに来て由美花の口数がいつも通りに回
復してきた。
「気になることがあってね、月ちゃんがマインドコン
トロール、をする人がいて、その人が無理に自殺させ
てるのかもって言ってたよね。」
「そうなると自殺というよりは殺人ですけどね。」 月江が言い、由美花はしばらく思案に暮れている様子だったが、また口を開いた。
「・・・聞こえたの。落ちろって言ってた・・・・・・。そう
したら、嫌だって思ってるのに、身体が受け付けない
ような感じになって・・・・・・ほら、ぼうっとしてると危
ないって分かってるのに身体動かないことあるじゃな
い。ああいう感じになるの。」
「それでそのまま飛び降りちゃったと・・・・・・。ますま
すマインドコーントロールの可能性が濃厚ね。大体、
こんな短期間に同じ場所で三人も自殺してるって事自
体おかしいのよ。」
「その話からして、マインドコントロールといっても
系統が別れるような気がしますね。」
月江がおもむろに言った。裕嬉は系統?と聞き返す。
「ええ、二通りです。二人とも同調した際に気が付い
たら屋上だったと言いましたよね。これが本人と同じ
感覚であるとすれば、彼女たちはきっと、屋上で我に
返るまでは深い催眠状態にあったと思われます。完全
にコントロールの支配下にあったと言うことですね。
自分の考えとは関係なく屋上まで来た、或いは屋上に
行こうという意志自体が誰かによって作られたものだ
と考えられますから。」
裕嬉も分かったと頷いた。
「それで屋上で気が付いたその後っていうのは、意志
では抗っているのに身体は操られているってことね。」
「より精神的な・・・暗示的な力と、直接的な力、或いは
精神に関与するとしてももっと表層の部分に関わる力の
二つが働いているのではと思います。」
「直接的って方だとしたら、割と月ちゃんの力に近いっ
てコトになるよね。」
由美花に言われて、月江はそこまでは気が付かなかっ
たと答えた。
「確かに物体に強制的な力を与えて動かすってことだと
すれば月江の力と同じなのかも。でも、背中押されたと
かそういうのではないのよね。もっと普通に、自分で足
動かすのと同じように、でも勝手に歩いてっちゃったん
だから。」
「そんなことが念動力で可能になるとしたら、それはか
なり高次の能力と言わざるを得ませんね。もちろんその
場合は私と同じような単純な念動力も扱えるはずですし。
・・・・・・やっかいです。」
「マインコントーロールと念動力ね・・・・・・。」
何気なく呟く裕嬉に、月江は至って冷静にしかし恐る
べき事を告げた。
「私たちの推測が正しいとすれば、相手は複数、もしく
は一人で複数の力を持っているということになりますね。」
ああ、またこの映像だ。
屋上に立っている。
ただ今回は少し客観的な要素があるようだ。
鈍い頭痛や心の澱み、そういったものは感じ
られない。
ふと立っている自分から分離するようにし
て、歩み出す少女の背を見る。
飛び降りては駄目ー咄嗟に手を出そうとし
て、そうできないことに気が付く。身体の存
在を感じられない。少女の背はまるで映画の
中のことのように手の届かない次元にある。
(同調じゃないわ、これ。)
だが微かに聞こえる。
(たすけてって言ってる・・・・・・)
でもどうすればいいのか分からない。
何もできないこの自分に、何故、何を、求め
るのか。裕嬉の苦痛の理由は変わり始めていた。
それにもう、目の前の人物はこの世に存在し
ていないのだ。
辺りを見回している。気付いたはずだ、死に
たくないということ。
その途端、裕嬉は体中に鉛のような鈍い重圧
を感じた。
落ちてしまえ
遠のく意識を抑え、裕嬉はその声に集中した。
これこそが由美花の言っていたものに間違いな
いのだから。何か、手がかりを。
生きていても仕方がない
駄目だ、頭が痛い。
ふいにブラックアウトした視界が元に戻ったと
き、そこに見た屋上に踏み出そうとする足は自分
ものではなかった。
ー死にたくない
同調している。
ーたすけて
どうすればいい。
私には止められない。
そう答えた頭の中に、稲妻のような感覚が走った。
(まだ間に合う。)
なんだ、今のは。
死の淵へと向かう彼女は止まらない。
(止められる。)
どうやって。
止めたい間に合って欲しい・・・・・・そう思ってい
る。願っている。強く。
(でも無理なのよ!!)
叶わないと知っているから、突き上げる衝動に
胸を焦がす。
不可抗力への、無力への、絶望。
けれど諦められないから、苦しんでいる。
だから、誰か、私をたすけて。
不可抗力を打ち破る力を。
裕嬉の叫びを嘲笑うかのように、足はあっさり
と地面を離れる。落下の感覚に景色が混沌と渦巻
く。暗い空、暗い空ーそこで何かが光っている。
雨、雨が降っている。
コンクリートを踏む足に、水音。
耳に響く雨音。
許して、癒やす、神聖さえ感じられる音。
(こんな日ならきっときれいに死ねる)
身を打つ雨に身を任せ、そのまま死んでしまえ
ばいい。
ーどうして
理由なんて知らない。
死にたくはないのに、足は止まらない。
それだけ、だから。
そして
由美花は起きあがった。そこは屋上ではなく、自
室のベッドの中だった。シーツを握る手に汗がにじ
んでいる。
サブリミナルのように頭をよぎる光景。血の色に
染まる水たまり、そこに倒れる少女の姿。 呼んで
いた。叫んでいた。頭を離れない。こんな事では足
りない。まだ足りない。苦しんでいる。求めている。
死んでいない。まだ終わっていない。
「たすけたい・・・死なせたくない・・・・・・!!」
由美花は涙を流していた。
遠く、呼び覚まそうとする音が聞こえる。
裕嬉はゆっくりと瞼をあげた。鮮明になって
いく意識にまたその音が響く。
「電話だわ。」
軽い疲労を感じて横になっただけのつもりだ
ったのだが、いつの間にか眠っていたらしい。
しっかり同調の夢まで見てしまった。
「はい瀬野・・・・・・ああ、月江ね。」
『すみません、もう寝てましたか。』
裕嬉は時計に目を走らせる。まだ十時だ。
「うー、夕方から寝ちゃってたみたいなの。
起こしてくれて丁度よかったわ。」
『そうですか。丁度よかったというと・・・また?』
相変わらずの察しの良さだ。裕嬉はその気遣
いに笑みを浮かべた。
「そうだけど、大丈夫よ。何か、用があるの?」
『同調について聞かせて欲しいことがあるんで
す。やはり、辺りは暗かったんですよね?』
月江の意図が把握できず、裕嬉はいぶかしんだ
がとりあえず肯定した。
「そうよ。」
『でも雨は降ってなかった、と。』
「そうね、今見たのではっきりしたけど、雨に
気付かなかったと言うよりは降ってなかったわね。」
『そうですか・・・・・・。』
月江が沈黙する。裕嬉は尋ねた。
「何を、考えているの?」
『裕嬉、よく考えて答えてくださいね。辺りが暗か
ったというのは、夜ではなかったのですか?』
「何言ってるのよ、みんな、飛び降りたのは昼間
・・・・・・」
切り込むようにして脳裏に閃いた映像。
暗い空、暗い空ーそこで何かが光っていた。
裕嬉は言葉を途切らせる。
遠のく意識の中、空に見た、あの輝き。あれは。
「・・・だわ」
呟く声が聞き取れず月江が小さく問い返したが、
裕嬉はそれに答えると言うよりは半ば自分に言い
聞かせるように繰り返した。
「星が見えたのよ!」
暗い空に点々と見えたのは、恒星の輝きに間違
いなかった。
しかし何故そのようなものが見えたのか。
あそこまで鮮明な意識の同調に、現状に対する
誤差が生じるとは考えにくかった。それに、その
夜空の景色も明確なものだった。
「どういうことなの・・・・・・何か、考えがあるのね。」
裕嬉が落ち着くのを待っていたのか、しばらく
口をつぐんでいた月江がゆっくりと言った。
『もし、裕嬉の見たものが過去の、或いは現在進
行形の出来事ではなく、これから起こること、未
来の出来事だとすれば・・・・・・辻褄が合うとは思い
ませんか。』
月江の言葉に、驚きと二つの文字が頭をよぎった。
それは。
「予知、なの?」
月江は何も言わなかった。それは、彼女にも未知
数のことであったからだ。だがそこに可能性が横た
わっていることには変わりはなかった。
裕嬉は無意識のうちに洩らしていた。
「たすけられるのかもしれない・・・・・・。」
「言い出したら本当に聞きませんねえ。」
「今更ね、月江。」
裕嬉は気の進まない月江を連れて屋上へと続く階
段を上り始めた。土曜の放課後、普段なら文化系ク
ラブの生徒や昼食をとる運動部員で賑やかな時間帯
だが、学校の方で生徒を強制的に下校させたために
校内は静まり返っている。二人は一度教室を出て見
回りが終わるのを待った後に再び校内に戻ってきた
のだった。
由美花は今日も欠席していた。
「マインドコントロールに関してもある程度確信が
持てましたし、敢えて裕嬉が同調する必要もないん
ですよ。」
「まあ・・・そうなんだけど。何か手がかりになるか
もしれないし。それに、刺激が欲しいわけね。」
刺激、と月江が繰り返した。
ついに四階から屋上へと向かう段になって、二
人は一応誰もいないことを確認する。それから裕
嬉は月江に言った。
「そう、刺激よ。もし、私の見ているものが予知
なのだとしたら、もっとはっきり知りたいの。そ
れがいつ起こるのかって事を。」
「感覚を刺激して、未来からの情報に敏感になろ
うと、そういうことなんですか。」
裕嬉は頷いた。
「そうね。多分、予知にしたって同調にしたって
何か人の念を感じるっていうのは基本的に同じ事
だと思うの。思念が空間を超えるか時間を超える
かって事の違いで。」
「確かにそうですね。」
たすけを求める呼号。
空間と時空さえも超えてー。
「これ、どうしよっか。」
裕嬉が屋上へと続く扉の取っ手を雁字搦めにし
ている鎖をじゃらりと鳴らした。南京錠までかけ
られている。月江がその鎖に手をかけた。
「裕嬉がその気なら私が手を貸さないわけにはい
かないでしょう。」
「切るの?」
「いいえ、一度、ここの輪になっているところを
外して、また帰りに元に戻しましょう。危ないで
すからね。それにその方が、不審に思われないで
しょうし。」
「確かに私たち立派に挙動不審だわね。」
「それこそ、今更ですよ、裕嬉。」
月江は呆れ顔で鎖を握り直した。その手に触れ
る輪の一つが溶接部分からゆっくり広がり、ざら
っと音を立てて外れた。
「終わりました。」
とってから外した鎖を階下から見えない位置に
月江が横たえた。
扉の細い間隙をぬった風がひゅうっと甲高く鳴
いて二人の間を駆けていく。今までに三人の人間
がここを通り、そして二度と帰らぬ人となった。
自分は、その最後の足跡を辿ろうとしているのだ。
裕嬉はゆっくりと扉に手をかけた。
「・・・開けるわね。」
ひらけたコンクリートの空間から強い風が吹き
つける。二人は風邪になぶられる髪を押さえなが
ら屋上に踏み出した。
「空気が、重いわ。」
裕嬉が一人、更に進み出る。月江もその後に続いた。
「念が、滞ってるんでしょうね・・・・・・。」
見えないものを見極めようとするかのように月
江は目を細めた。
昨日の雨が嘘のように空は底の見えないほど澄
み渡っている。しかしここには重たく、澱のよう
に何かが停滞している。それはここで自殺者が出
たという既知の事実のためかもしれなかったが、
月江でさえも胸の悪くなるような感覚を覚えた。
「高い・・・・・・。」
欄干から地面を見下ろし裕嬉は言った。そのま
ま欄干に背を預けるような格好で月江を振り返った。
「本気でやるんですね。」
裕嬉は首肯した。
「だって、もう知ってしまったんだもの。みんな、
どんなに苦しかったか、辛かったか・・・・・・。他人
事になんて思えない。だから自分に出来ることな
らなんでもしたいの。それに私以外は知らないし、
気付かないのよ?だったら、私がやるしかないっ
てそういうふうにも思うわ。」
「そうですね、私もそう思います。裕嬉、一つ訂正
させてもらいましょう。私、ではなく私たち、とい
って欲しかったですね。最も、結局こうやって裕嬉
にばかり負担をかけていますからそんなふうには言
えないかもしれませんが。」
裕嬉は笑った。
「馬鹿ね、頼るとかじゃないのよ。言ったでしょ、
やりたいからだって。それに月江に言われなきゃ、
予知なんて思いもつかなかったわ。」
そこまで言って裕嬉はふと思い出した。
自分が、これから起こることを知っている、そ
う自覚したときの思い。
「大事なのは予知とかそういうことではなくて・・・
先が分かるなら、助けられるかもしれないって、
そういうふうに思えたことだわ。本気で助けよ
うって、私にも助けられるって、そう思ったこ
となの。それも月江のおかげね。」
「買い被ってもらっても困りますよ。そう考え
たのは裕嬉自身なんですから。」
月江も笑った。
「それにね、これから死んでしまうかもしれな
い人をたすけたいっていうのとは別に、それを
しようとしてる人間が許せないから。」
人のいのちを弄ぶということ。
そんなことは世の中にいくらでもあるのかも
しれない。それでも、それが自分たちにしか気
付くことの出来ない次元で起きているとしたら、
人任せには出来ない。たすけたい。仕方がない。
許せない。
諦念と決意。
そんなものの間で、裕嬉は目を閉じた。
「じゃ、何かあったら頼むわね。」
「承知しました。」
耳を澄ますように、閉じこめた心を解き放つ
ようにー裕嬉は感覚を集中させた。
目前に次第に広がっていく屋上の景色。そこ
に月江の姿はない。
今ではない、過ぎ去った時間の中にいる。陽
光の届かぬ暗さがそこにはあった。生暖かい風、
それと同時に顔や腕、足、衣服に覆われない部
分をたたく水滴を感じる。雨が降っているのだ。
水に濡れた着衣が張り付く感覚までもが鮮明に
甦っていく。あの日、あの時、ここに立ってい
た少女の心内が裕嬉の中で再現されていく。
死にたい。
漠然とそう思う。
低い欄干は容易に越えられた。
死のう、飛んでしまおう。
降る雨に流され、誘われるままに、この身を昇
華させるのだ。
どうして・・・・・・。
死にたくはない?
何故。
そこへ意識を奪う衝撃が襲う。
(落ちろ)
嫌だ。
(死んでしまえ)
嫌嫌嫌嫌
(死ぬ)
葛藤が渦巻く。意識のせめぎ合いに身体が蹌
踉めく。
耳鳴り、目眩、支配される感覚。抵抗の意志。
消える。消えてしまう。どうして死ななければ
いけない。でも死にたい。矛盾する二つの感覚
が並び立ち、争っている。
嫌嫌嫌生死嫌生嫌嫌死嫌嫌嫌死生死嫌嫌死死嫌嫌死死死
嫌嫌死
死
ああ、もう駄目。地面を離れてしまう。
死にたくは、な、い、のにー
「裕嬉!!」
「・・・え?あ」
月江の呼ぶ声に現実へと引き戻される。背中
に月江の手が添えられていた。
「そのまま落ちちゃうかと思いましたよ。」
「ああ・・・ごめん、ありがと。」
裕嬉はすぐに身を起こした。欄干の高さを考
慮すれば、無意識にそこ背を預ければ落ちてい
ても不思議はないかもしれない。額に張り付い
た髪に触れて裕嬉は今更のように自分がいつも
より深い同調状態にあったのだと気づく。
「何か、分かりましたか。」
「特には・・・けど、目的は果たせた。それに何と
なく感じたの。敵」
自分でその言葉を口にしてから裕嬉ははっと
した。敵ー自らに仇なすもの、そう呼べるほど
に許せないと思っている自分を認識する。
「敵は近くにいる。それで、自分のしたことを
見てるのよ。それで満足してるんだわ。許せな
い・・・・・・絶対、次なんて起こさせない。」
(二人とも欠席ですか・・・・・・。)
月曜の朝、誰もが重い足取りで学校にやって
くる。
月江も例に漏れてはいない。特にただでさえ
こういろいろと頭を悩ませる問題の多いときに、
一人で学校に出てくるというのは余計に憂鬱だ。
しかし、その原因ともなっている二人は、もっ
と苦しい思いをしているはずだ。
由美花はまだ同調が解けないでいる。
そして裕嬉は。
「無理だけはしないでくださいよ・・・・・・。」
「駄目・・・これじゃ駄目なのよ!!」
もう何度目になるか分からない呟きを裕嬉
は漏らした。その声は水分を失ってかさかさ
に乾いている。
暗い屋上の風景。
意志を屈服させる強制の力。
曲げられていく心。
死のダイブ。
それ以上のものが見えない。
何とか、何とかしたいのに。自分にはそれ
が出来るはずなのに!
後一歩で、掴みかけた何かがその手をすり
抜けていく。死体を目の前にして嗚咽をかみ
殺していた由美化の背中、感情的な面こそ見
せないものの初めから不審な自殺を疑ってい
た月江。誰もが、願い、探している。その最
も有効な手段に一番近づいているのは他でも
ないこの自分でなのに!!
長時間解放されたままの精神への負担は頭
痛という形で襲ってくる。意識的に予知の映
像を見ようとし始めてから、もう三日が経っ
ている。だが、決定的な、日時を知るための
手掛かりが得られない。
裕嬉は寝返りを打ち、視界を閉ざすように
俯せになる。
頭が、重いー
(え?)
一瞬、意識が途切れた感じがした。
裕嬉はあわてて身を起こした。デジタル表
示の目覚まし時計を引き寄せる。
「じゅうなな・・・・・・五時?」
さっきも五時じゃなかったか・・・と考えては
たと気づいた。もしかすると。
裕嬉は部屋を出て階下のリビングへと急いだ。
思った通り母親が驚いた様子で迎えた。
「よかった、心配したのよ。丸一日も眠ったま
ま起きないんだから!もう体調の方は大丈夫な
の?お医者様、お呼びしましょうか?」
裕嬉は大丈夫と首を振った。
「もう平気よ。ちょっと、いろいろあって参っ
てただけ。心配かけてごめん。」
「今度はそこまで身体悪くする前にちゃんと言
うのよ。」
「うん、そうする。」
夢も見ずに眠ってしまっていたようだった。
疲労が極限に達した結果、無意識に精神をガー
ドしていたのだろう。おかげで頭はすっきりし
た。
軽く食事を摂って再び自室へ戻る。
「やっぱり健康が資本だわねっ。」
頭も冴えた。体調も万全だ。
今度は大丈夫かもしれない。
裕嬉は大きく息を吐いて目を閉じる。
(たすけるわ、必ず。)
鞄から教科書その他を引きずり出したその
とき、電話のベルが鳴った。内線だ。月江は
コードレスの子機を手に取る。
「私です。」
受話器の向こうからは広い家屋敷を管理す
るお手伝いさんの声が由美花からだと告げた。
『内線の三番でつながります。』
「分かりました・・・・・・ああ、由美花お待たせ
しました。体調の方はどうですか?」
『うん、ホント言うと今日あたりはもう結構
大丈夫だったんだけどね。ここのところよく
休んでるからお母さんが心配しちゃって。』
今日のところは大事をとっておいたという
ことらしい。元気そうな声に月江は受話器の
向こうには伝わらない程度に安堵のため息を
ついた。
「何かありましたか?」
『こういう時月ちゃんってカンいいよね・・・・・・
大したことじゃないんだけどちょっと気にな
ることがあってね。』
ためらう由美花に先を促す。
「何でもいいですよ、気になるのでしたら言
ってください。」
『うー、あのさ、裕ちゃんが予知なのかもし
れないって、いつ次が起こるのか分かればっ
て言ってたじゃん。』
「ええ、そうですが・・・・・・由美花も何か見た
んですか?」
由美花は慌てた様子で否定した。
『いやいやそうじゃないんだけど。あのね。
最初の人が先々週の火曜日で、次が先週の日
曜日で、それでこの前の・・・金曜日なんだよね。』
頷きかけて月江ははっとした。
「全部四日おき・・・・・・!?」
『自殺』という表層現象に惑わされ、そこに人
為的な規則性が存在する可能性など完全に思惑の
外だった。
『偶然かもしれないけど気になって。もし本当に
そうだとすれば、水曜・・・・・・今日なんだよ。』
月江は沈黙した。得てしてこの手の時間の犯人
は、その動機が自らの裡の狂気にある場合、妙な
符号を好むものだ。あたりは既に暗い。手遅れに
ならなければいいが。
「・・・分かりました。私が行って・・・あ、キャッチ
ホンですからちょっと待ってください。」
ボタン一つの操作で回線を切り替えるとその相
手は裕嬉だった。
「ちょうど・・・」
月江が言うより早く裕嬉の言葉が飛び込んできた。
『分かったのよ、時間が!!』
裕嬉はもどかしい思いで受話器を握っていた。
繰り返すコール音を耳にしていながらも、今
見てきたことが再び頭の中を駆け巡る。
裕嬉はそのとき自殺しようとする少女の背中
を見ていた。少女の支店からの映像ではなくて、
少女を裕嬉が見ているという視点の変化も最初
は進歩に思えたが、それももう数度目で、今回
も何もできないだろうと半ば諦めていた。
(どうすればいいのかしら)
そのとき裕嬉は何気なく、何の苦も感じずに
足を前へと一歩進めていた。そして気づく。前
に進める足があるということ、則ち、身体がそ
こにあるということに。それは自由に動けると
いうことだ。
それならば。
裕嬉は少女に駆け寄る。
だが思った通り伸ばした手は少女の方をすり
抜けた。この空間において自分の存在は完全で
はないのだ。ただ、身体存在のイメージを持ち
込めたというにすぎず、依然として少女と自分
の間には次元の隔たりがある。
何か、時間の分かるものを。
(一番近い時計でも三階まで降りなきゃ・・・・・・。)
少女が欄干に手をかける。彼女が飛び降りれ
ばこの映像は消えてしまう。
そのとき裕嬉は手すりをつかむ少女の腕にそ
れを発見した。
(腕時計!)
デジタル表示の数字が視界に飛び込む。
無機質な直線が、98.9.14 Wed
8:45 を示している。
裕嬉は意識を一気に現実のレベルまで引き戻
す。深海から海面まで一息で浮上したような負
荷が頭痛となって襲ってくるがそれを振り切る
ようにして起き上がる。
九月十四日は、今日。
静寂の中に時計の針の音。
その針は、八時三十分を指していた。
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